もう十五年ほど前になるか、解剖学者で虫好きの養老孟司が『バカの壁』という本を出した。多くの人たちが身近なところに「バカ」を抱えているのだろう、400万部を超える驚異的ベストセラーとなり、私も読んだことがある。ただ、口述筆記をベースにした文章は充分練られてなく、あちこちに論理の飛躍があって、何が言いたいのかスッキリしない内容だった。こういう本を読んでも、まず「バカ」はなくならない。
バカの歴史は少なくとも古代インドに遡り、梵語(サンスクリット語)の"baka"が中国で「莫迦」と音写され、日本で当て字の「馬鹿」となって広まったらしい。長い間、人の使役に供された馬や、神の使いとされた鹿の皆さんには気の毒な話だ。元々は「無知・愚か」程度の意味だが、現在ではもっと広く「非常識、度外れ、無能、有害」とか、単なる接頭・接尾辞として強調表現に使われることもある。
私の父などは家族の誰かが小さな間違いをすると「バカのカタマリ!」というシャレの効いた言葉で叱ることがよくあった。たぶん長い軍隊生活で身に付いた表現だと思うが、それで私たちが萎縮したり傷ついたりしたことは一度もない。叱られながらどこか楽しくなる有り難い言葉だった。
原義に従い、どんな人間も大なり小なり無知で愚かだとすると、人は皆、バカの一類ということになるが、しかし、山に高低があり海に浅深があるように、人格にも自ずと高低浅深があり、バカにも種類や段階がある。真に自分を知る方々や、真面目にその道を歩んでいる正直な方々にバカを付けてはいけない。
私の観察では、バカは大きく二種類に分類して不都合はなさそうである。愛すべき良性のバカと、タチの悪い悪性のバカである。古くは仏典に見る「修利槃特(スリハンドク)」などは前者の典型だろう。四ヶ月かけて一偈一句さえ覚えられなかった槃特に、釈尊は出離の道をはき聡怩フ修行として教え、六年の後、彼は小乗教の最高位「阿羅漢」の聖者となった。
後者の代表格は、やはり古く仏典によれば、師匠の釈尊に怨嫉して悪逆の限りを尽くした「提婆達多(ダイバダッタ)」ということになるだろうけれども、不知恩で無慚なバカは 現在、犯罪ニュースなどに登場するだけでも相当数いる。
そしてこの二種はどんな人の中にも内在していて、様々な因と縁、その善悪と濃淡により、顕著に表に現れたり、全く無きがごとく生命の奥深くに冥伏(みょうぶく)したりする。
弱い者虐めばかりしていた中学時代の不良バカは、三年のある時、無免許運転の単車事故で内臓破裂の大事故を起こして生死の境をさまよった。何ヶ月か後に再び学校に姿を現した時には、別人のように心優しい好少年に変わっていて、学校の皆が大いに驚いたことがある。良性が悪性に変わるのは簡単だが、悪性が良性に変わるには余程の試練が必要らしい。
さて次に、私が身近なところで目にし耳にした、渚(海岸)にまつわるバカの話を少し書く。(その2につづく)