前回の続き…。
うちにある古いマトリョーシカを、道上克著「マトリョーシカノート3」を参考に考察すると、
・これは、セルギエフ・ポサード系。1950~60年代。
裏にゴム印で 「CCCP」(ソビエト連邦のロシア語表記)。
半端もので、これ一つだけ(中は空)。
セルギエフ・ポサードといえば、近くにおもちゃ博物館というのがあって、マトリョーシカがたくさん展示されてるらしいです…。行ってみたい…。
・これはボドリスク地区、1970年代。↓
形も変わってますが、結構小さいです。一番大きい子で高さ9センチ。
ほとんど塗ってなくて木地のまま。顔の輪郭も描いてません。大胆な省略。
まるで日本のこけし…。
こけしと言えば…思い出したのがこれ↓
こけしがマトリョーシカのように開いて中に小さなこけしが入っていました。
たしかよりどり3つで100円だったので、右の名刺立て(カードスタンド)と何かを100円で買いましたが、私にはこれがお宝です…。
「人が見たら蛙になれ」村田喜代子、 を思い出しました。
何組かの男女の骨董商の話で、とても面白かったのですが、新聞小説で読んでいたので、進展がゆっくりでしたね。
この題、どういう意味かしばらく分からなかったのですが、
たしかお重のあんころ餅か何かに、人(嫁?)が見たら蛙になれ、と言った昔話があったとか…。なるほど、と思いましたが、うろ覚えです。もう一度読んでみなくては。
戻って、隣のこけしっぽいマト。こんな顔して写っている私の子供時代の写真があったような気がして…。カメラ目線じゃなく、よそ見してるし。
妙に親近感がわく表情です。
プロフィール写真に使いたいくらいです。
このマトリョーシカノート(本です)、今まで非売品で、図書館に行かないと読めなかったのが、「マトリョーシカノート 3 」になって買えるようになってて、アマゾンで見つけて即購入。
この本のすごいところ…
中にはマトリョーシカの写真がいっぱいですが、大半が1900年代前半から1980年代ぐらいのもので、650点超(あとがきを読むと)すべて日本の骨董市とかアンティークショップで手に入れられたらしい。
そしてその後がすごいのですが、そのマトリョーシカたちの形や絵柄にいくつかの纏まり(グループ)を見つけ、 各グループの系統的な流れと形や絵柄の時期ごとの変化…(つまり時間と空間ー縦軸と横軸による分類)がたくさんの写真とともに説明されています。
一つ(横軸)は生産地による区分 : セルギエフポサード、 セミョーノフ 、マイダン、トヴェーリ…等 (すべて地名)
一つ(縦軸)は年代ごとにⅠ期(1890年代)から Ⅵ期(1990年以降)までに分けて、分類して論じられています。
以前図書館でこのマトリョーシカノート2 を見たときに、
同じような古いマトリョーシカを集めて、底部のシールやスタンプなども参考に、時間と空間で分類するという「冷静な情熱…」に驚きました。
あとがきによると著者は考古学がご専門のようで、「考古学の土器型式は、地域によって系統化が進み、時間によって文様が変化する。 …中略 …
一方、マトリョーシカも、ロシア各地域で、長年にわたりその工場(工房)特有の『決まったタイプ』のものが、時期的な文様変化はあるものの、継続して作られているのである」(あとがきより)
なるほど…。
私は、これは似てるなあとか、別のタイプだなあとか、模様がいいとか、珍しいとか、…その程度の感覚的見方で…。
そこでとりあえず、私の持っている古いマトリョーシカ数点を、この本を参考に分類してみました。
・これは、当家最古参のマトリョーシカ。保育園のバザーで30年ほど前に購入。(目の位置がずれてる…)
セミョーノフ系。第Ⅳ期くらいじゃないかと。マトリョーシカと言えばこれ!って感じですね。
・次にこれは、マイダン村系 のマトリョーシカ。
何か別のマトリョーシカを買った時におまけでもらったもの。2番目の子が抜けてるらしい。
言われてみると、マイダニスカヤと真ん中くらいに書かれてる…。 1987という数字も見て取れる。
も一つ 「3」という数字も見て取れるので 、もともと3ピースだったのかもしれない。
・これはトヴェーリ系 1990年代。
(2003年秋ごろ、ユトレヒトという本屋さんがマトリョーシカ展を開催しているのを聞きつけ、代官山なんていうおしゃれな街に出かけて行って、購入したもの。
同じタイプが数体あったような気がします。どれも経年変化で塗装がはがれてて、同じものを数点輸入したものがどこかに残ってたという感じでした。)
と、古いのを引っ張り出してみて、あれこれ眺めて、おかげさまで楽しかったです。
この古いマトリョーシカ達は、遠くロシアから、1900年代にどのような道のりをたどったかわからないけど、はるばる日本に来たのですね。
そういえば、こないだ世田谷ボロ市でも古いのを数点見かけましたが、結構高くて買えませんでした。
マトリョーシカに魅せられてからのアプローチって、人それぞれ違うなあと思いました。(この蒐集と分類にはもちろんかないませんが…)
(私は、マトリョーシカを見ているとぼーっとしてしまうのです。)
また大雪で…。
この写真は2月14日夜の九時半に撮影。コンパクトデジカメ オートモード フラッシュ禁止。
2月4日の濃霧 とほぼ同じ条件で写しましたが、何だか昼間みたいに明るく写ります。
雪明り、って本当だと思いました。
所用で浜松に行った帰りに静岡の友人宅を訪ね、この蓬莱橋に連れてきてもらいました。
何でも世界一の長さの木造歩道橋だそうで、897.4m。(約1キロ)。
大井川のこちらの岸からあちらの岸まで、ずーっと木の橋がわたっていて、手すりの低い歩道橋。
下の大井川の流れが結構な流量で、ちょっと怖かったです。
怖かったので真ん中を歩きました。自転車も通行可とあったけど、自転車は怖いんじゃない…?
向こう岸にわたって見えた富士山。
午後3時ころで、行きはポカポカのんびり歩いたけど
帰りは何だか冷えてきました。
その後、もう少し上流の島田市へ。
例の「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 の川越しの歴史を伝える街並みと博物館がありました。
(写真は島田市博物館のパンフレットより)
今まで考えたことはなかったけど、これは乗ってる方もつらいけど、乗せてる方はもっとつらい。
この博物館のHPを見ると、これでどうやら今の値段で12000円くらい(水深によって値段が変わるが)…。東京から浜松の新幹線自由席より高い!
絵の奥の、手すりのある蓮台はもっと高い。
これはもっとつらい↓
(島田市博物館分館パンフレットより)
これでどうやら2000円くらい。やはりその日の水深によって値段が違うらしい。
馬に乗ったまま渡れるのは士分以上のものだったとか。
夏はいいとして、この寒い時期はどうだったんだろう…。
参勤交代のたびに、「ちっ…また大井川渡るのか…」と考えた人たちもいたでしょうね。
幕府の防衛措置で通船架橋が禁じられたとはいえ、幕府も罪なことをするものだなとか、普段は新幹線でしゅっと過ぎてしまうけど、実際にちょっとだけ歩いてみてあれこれ思いました。
「大部分の作品が ”紙上初公開”」 とあるので、これは「参考資料~♪~」
と思って購入したのですが、
その割に、どうも見たことあるような作品ばかり…。
「初公開?、変だな?」
たしか以前日本ユーラシア協会のユーラシアンバザールで買った本に載ってたようなのばかり… 。
と思って確認しましたら…中の写真はちょっと小さいけど全く同じでした…。
本のサイズは違いますが、同じページには同じ写真です。
しかし、大きな違いがありました ……… 右は日本語です。…翻訳版でした。
んー、表紙の絵が違うもんだから…。
しかしよくよく見れば、
日本語版は「ロシアのマトリョーシカ スヴェトラーナ・ゴロジャーニナ 著」
大きい方は「Russian Matryoshka」 著者名は扉じゃなくて 最初のページに Svetlana Gorozhanina と書いてありました。
まあ、もともと写真だけ見てぼーっとしてましたけど、文章が日本語で書いてあれば読めますね…。てことで。大きい方はお宝本にします。
2月2日(日曜日)の夜、濃霧のため小田急線が遅延しているというニュース。
へー?と思って外を見ても、月も星も見えるくらいすっきり晴れていました。
が、しかし、その30分後くらいに外を見ると、なんと、あたりは乳白色の霧に包まれていました。
普段は曇りの日でも見えているビルが ⇒ 見えない
ひたひたと冷たい霧が押し寄せてきていて、
こないだちょっと読んで途中でやめたホラーミステリーを思い出してしまいました。
三津田信三著「作者不詳」…友人を訪ねて行った主人公が住宅街で濃い霧に包まれてしまうくだりで、何を大げさな…と思ったけれど、まさにそんな感じでした。
濃い霧のため、道の先がよく見えない… これでは車の運転も危ない。
この濃霧は深夜まで続いていて、夜中は車の音も聞こえず、街全体がしーんと静まり返っていました。
あの有名な歌
「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや…寺山修二」
も、思い出しましたが、
で、私も一句(短歌じゃない)
「春の霧深きしじまに沈む街」
???
マトリョーシカ絵付け教室に行かなくなって、しばらくはマトリョーシカを描くことを忘れてましたが、
ある日、知り合いの園芸好きの方が、花壇にちょっと刺すかわいい木の札を作ってるところに行きあいました。
ベニヤ板を糸鋸で切って、ウッドバーニングペン(電熱ペン)でかわいい絵とか名前を焼き付けてるのです。
早速、その電動糸鋸を使わせてもらって、…何を作るかといえば…マトリョーシカ!
マトリョーシカ型にベニヤ板を切って、ウッドバーニング用のペンで描いてみました。
(ウッドバーニングペンは買ったんですが、さすがに電動糸鋸は買えなくて)
その時描いたのがこれです。
もう一枚切り抜いて、
ニイガタ マツヤ のロシアチョコのパッケージを真似て描いてみました。
左が箱入りのチョコ、右がプラスチック円筒ケースのチョコでした…。
たしか、とても美味しかったです…。
これがウッドバーニングの始まりでした。
(昨日2月1日の続き)
世田谷区経堂にある日本ユーラシア協会のマトリョーシカ絵付け教室に行きました。2001年秋のことです。
この協会のビルの応接室のような一室で、白木のマトリョーシカを買って、この冊子も買って、「まあ自由にやってください…。」という雰囲気でした。
そこでは特に技術的なことを教えるわけではなく、協会の方と、常連さんが思い思いに描いてました。
テーブルには筆とアクリル絵の具と、ホタテガイの貝殻のパレット…。
(協会の人は絵手紙なんかを描く顔彩を使っていたし、水彩絵の具持参の人もいました。)
確か後でお茶と、キャンディーやチョコレートのようなお菓子も出て…。
月一回、土曜の午後に、まったりとマトリョーシカについての話を聞きながらの絵付けでした。
でもそれだけなら、はまらなかったのですが、そのときそこにあったのがこの本。
中には、1900年のマトリョーシカから始まって、各地方の古いマトリョーシカや、いわゆる作家ものの豪華なマトリョーシカの写真がいっぱい!
こんなのあるんだ…!。こんなにあるんだ…!。
という驚きで、飽かず眺めましたが、
絵付けのためのデザイン・図柄の研究、参考資料と称して、東京で手に入るマトリョーシカをネットで探したり、店に行って買ったり…。
浅草橋にマトリョーシカを売っている店があると聞けばそこへ行き、鎌倉にあると聞けばそこへ行き…。
だんだん本末転倒になって、マトリョーシカ集めは続くのですが、絵付け教室はそのうち行かなくなりました…。
その教室でいくつか描いたもののうちの一つがこれ…。
これはもともと半端ものの白木で、一番外側一つだけのものでした。
中に手紙が入れられます!
まだ続く。
(上の本、マトリョーシカ絵付け入門 は、アマゾンで検索すると買えます。)