枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その17 楠原教会堂(下五島、福江島)

2018-05-23 | 教会・天主堂を訪ねて
楠原は、福江島の北部、海岸より少し入った内陸の地。堂崎天主堂のコメントにも記したことですが、この地は江戸中期(寛政9年、1797)大村藩の農民の五島移住地の一つです。ここでは、牧場作りが仕事で、密生した楠の林を開墾、樟脳を製造しながら整地して牧場にしたのです。勤勉な開拓民の努力により、五島一の馬数を有するまでになったといいます。
キリシタンであることを秘匿した移住でしたが、大村と違い当時はキリシタン弾圧もなく、住民にとってはこの上ない暮らしであったようです。
以前にも紹介しました、「五島へ、五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも・・」と俗謡に歌われた・・その時代です。
それは、幕末維新の頃、暗転します。長崎、大浦に宣教師再来の報と呼応するように、住民はキリシタンであることを表明し始め、藩や国の取締側も、また旧来からの郷民も過酷な弾圧に転ずるという、皮肉とも思える結果を生んだのです。当時のこの地区の信徒は800人と言われます。
天主堂の近くに、明治元年の弾圧で教徒が投獄された楠原牢屋敷跡があり、碑が見られます。

明治6年の禁教令撤廃と時を経ずして、神父がこの地を訪れますが、今に見るこの天主堂が建ったのは、約30年の資金の蓄積期間の後、信徒の労務奉仕を得て、大正元年のこと。コンバス司教により献堂。堂崎天主堂の完成後、鉄川与助を含む同じグループにより設計・施工されたと見られています。鉄川の作品と見做せば、4棟目の天主堂となります。
平面は三廊式。内部立面は単層構造。天井はリブ・ヴォールト。煉瓦造(鉄川の天主堂に共通に見られる長手積みと小口積みが交互のイギリス積み)正面部分が建物本体とは独立した、看板建築のように見えるとの評もあるようですが、鉄川が明治43年に完成した青砂ケ浦天主堂とのデザインの共通性は明らかですし、実際に堂前に立つと、その煉瓦面の美しさ、迫力には圧倒される思いです。ただ、昭和43年、全体のデザインを無視した内陣(祭壇部)のコンクリートによる増築には、残念がる声が多いようです。
海辺に建つ天主堂の多い五島にあって、内陸の農村地帯、田畑と農家と同じ立場を持つこの天主堂。老朽化の進む中、美しい姿を保持した維持保全を望まずにはおれませんでした。(2010年5月)
















































西海の教会堂を訪ねて その16 堂崎天守堂(下五島、福江島)

2018-05-22 | 教会・天主堂を訪ねて
この下五島、福江島においても、最初のキリスト教はアルメイダ修道士により伝えられたようです。天主堂の庭に、アルメイダと日本人イルマンのロレンツが五島の藩主に宣教している場面のレリーフがあります。アルメイダは医師でもあり、藩主の病気を快癒させたといいます。それを機会に多くの信者を獲得し、堂崎近くの奥浦に布教所まで与えられています。
そして、時はキリシタン迫害の時代へと・・。天主堂に向かうように、日本二十六聖人の一人、ヨハネ五島が十字架に掛けられている像があります。教徒以外の者にとっては、目を背けたくなるような残酷な像です。ヨハネ五島はその時、19歳だったといいます。
長い「隠れ」キリシタンの時代です。(五島では「隠れ」といわず「元帳」(教会暦をお帳と呼ぶことに因んで)と呼ばれたそうですが・・)現在の五島の信者の祖先は、江戸時代中期、長崎大村藩から開拓のため、信徒であることを隠し、この島に移住してきた人たちと言われます。
明治初年の狂気のような最後の迫害を越えて、明治6年禁教令が撤廃され、明治10年、フランス人マルマン神父(佐世保沖の黒島に大御堂を建て、その地に眠ったあのマルマン神父・・)が奥浦、そしてこの堂崎に居を構え、信徒発見に努め、明治21年からペルー神父がそれを引き継ぐことになったのでした。ペルー神父はこの地で30年を過ごすことになります。そして明治41年、待望の赤煉瓦のこの御堂を献堂したのです。
堂前の子供達に囲まれたマルマン神父とペルー神父の像、御堂を見つめる表情の優しさが印象的です。


堂崎天主堂は、上記のように明治41年の献堂。今に残る福江島の天主堂としては最も古いものです。平成11年、内外装の補修が行われ、イタリヤ製の煉瓦も輝きを増し、美しい姿に蘇りました。
設計はペルー神父。施工は野原与吉。鉄川与助も工事に参加。鉄川は、ここで西洋建築技術の多くをペルー神父より学び、後の天主堂建築で花開くことになったと言われています。
内部は三廊式、立面は単層構造、リブ・ヴォールト天井。側面の上部尖頭アーチ形窓は、外側両開き鎧戸、内部内開き色ガラス戸で外部に出られる構造。九州に現存する天主堂としては唯一のアメリカ積みの煉瓦(4~5段長手積み、1段小口積みを挟む)を採用。(内部は撮影禁止)

この地は島の北端、岬の先端です。なぜ、このような場所に下五島の中心ともなる天主堂が建てられたのでしょうか。陸路が整備されていない時代、信徒の人達は専ら船を利用したのです。ホラ貝の音がミサの合図でした。以後60余年間、礼拝が続けられましたが、奥浦の街に近い浦頭に教区が移り、更に昭和49年県指定有形文化財となり、ホラ貝の音も絶えて、天主堂としての役割は終えたようです。今は資料館として使われています。

私はこの日、福江島の北の久賀島の五輪を訪ねた午後、海上タクシーでここに 寄りました。船頭さんは、写真を撮るための少しの間船を止めてくれます。ひたひたと波の寄せる浜。ポツンと赤い煉瓦の天主堂がありました。観光としての顔に変わった天主堂、ちょっと寂しそうな表情に見えたものです。(2010年5月)




































































西海の教会堂を訪ねて その15 大江教会堂(天草)

2018-05-20 | 教会・天主堂を訪ねて
大江天主堂は、崎津天主堂に近い天草下島の西南、小高い丘の上にあります。明治以降に天草に建てられた二つの天主堂の内の一つです。

明治40年、この地を訪ねた紀行文「五足の靴」(岩波文庫)にこの天主堂に関し興味深い記述がありますので、引用させていただきましょう。(「五足の靴」は、与謝野寛(鉄幹)が、まだ学生の身分だった太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅した記録、紀行文)

「「御堂」はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに「パアテルさん、パアテルさん」と呼ぶ敬虔なる仏蘭西(ふらんす)の宣教師が唯一人、飯炊男の「茂助(もすけ)」と共に棲んでゐるのである。案内を乞ふと「パアテルさん」が出て来て慇懃(いんぎん)に予等を迎えた。「パアテルさん」はもう十五年も此(この)村にゐるさうで天草言葉が却々(なかなか)巧い。「茂助善(よ)か水を汲んで来なしやれ。」と飯炊男に水を汲んで来させ、それから「上にお上がりまっせ」と懇(ねんご)ろに勧められた。・・」「「パアテルさん」は其(その)他いろいろのことを教へて呉れた。
此(この)村は昔は天主教徒の最も多かった所で、島原の乱の後は、大抵の家は幕府から踏絵の「二度踏」を命じられたところだ。併(しか)し之で以て大抵の人は「転んで」仕舞って、唯この山上の二三十の家のみが、依然として今に至るまで堅く「ディウス」の教へを守ってゐるさうである。・・・それで信者は信者同士でなければ結婚せぬ。縦(よ)し信者以外のものと結婚するとしても、それは一度信者にした上でなければならぬ。いや、今は転んで仏教徒になってゐるものでも家の子の出来た時には洗礼をさせ、又死んだ時にも、表面は一応仏式を採るが、其(その)後更めて密かに旧教の儀式を行ふさうだ。・・」
「・・・此(この)教会に集る人々は、昔の、天草一揆時代の信徒ではなくて、此御堂建設後、二十七年の間に新に帰依したものである。それは、大江村に四百五十三人、それから此の「パアテルさん」が一週間交代でゆく崎津村に四百五十九人あるさうだ。・・・」


その「パアテルさん」、ガルニエ神父は、明治25年から50年間この地に尽し、昭和8年今の天主堂を建てます。当時の金で25000円、神父は生活を極度に切り詰め捻出したといいます。設計・施工は鉄川与助。鉄川21棟目の御堂。RC造。切妻の背面は将来の増築を考慮したもの。
緑の丘に建つ純白の御堂。折上天井、花模様に飾られた暖かな内部は、神父の人柄を表すもののようにも思えます。(内部は撮影禁止)(2010年5月)

























































西海の教会堂を訪ねて その14 崎津教会堂(天草)

2018-05-18 | 教会・天主堂を訪ねて
2009年の上五島の天主堂への旅。その折より、更に下五島や天草の天主堂を訪ねたいと思っていました。それを実現することができました。天候にも恵まれ、西海の海も山も海辺も輝いていました。その中で、心に沁みる天主堂の姿と、その背後の歴史の中の人の血と涙の跡を垣間見たように思いました。実際の行程とは逆ですが、天草から下五島へと紹介させていただきます。

江戸時代の初め、天草は島原とともに最も多くのキリシタンが住んだ所と言われます。ザビエルが鹿児島に上陸してから17年の後、30歳で商人から聖職に転じたポルトガル人、アルメイダ修道士の西九州各地への熱心な布教活動に負うところが大きいとされます。アルメイダは医師でもあり、病院や孤児院の設立など福祉への献身が人の心を捉えたのでしょう。後にマカオで司祭となったアルメイダは、再び日本に来て、崎津に近い天草の静かな浦で59年の生涯を閉じます。長年の労苦により、80歳をこえる風貌であったと伝えられています。
しかし、この天草の地、明治以降に蘇った天主堂は、大江、崎津の二つを数えるばかりなのです。1637年、あの島原の乱で原城に籠ったキリシタン3万5千人のほぼ全員が殺戮されたためなのです。天草の二万の人口は8千人になったと言われます。
島原の乱は、搾取に抵抗した農民一揆という面もあるのですが、最近の発掘などの調査の結果は、宗教的熱狂による一種の開放闘争であったという面を押してるようです。この痛みは、今もなを天草の人々の心の中で消えることがない・・と言われます。反乱軍に加わらなかった島の西南の辺縁の地の僅かな信徒が信仰を守り続け240年の後、フランス人神父を迎えたのです。


崎津は、アルメイダ修道士により最初の天主堂が建てられ、天草での布教の中心となったと伝える地。現在、天主堂のある場所は、庄屋の屋敷であったところ。天主堂の祭壇のある場所で厳しい踏絵が年ごとに行われたといいます。
今の天主堂は、明治18年以降3度目の再建で、昭和10年フランス人ハルプ神父のもとで献堂。設計施工は鉄川与助。鉄川24棟目の御堂。前部はRC造、後部は木造のコラボレーション。鉄川としては珍しく、ゴシック様式を明らかに踏襲した外観。それに反して、内部はリブ・ヴォールトの天井にデザイン化されたユリの花を飾る優しい佇まいなのです。
床には、一面畳が敷かれ、その上に折りたたみ椅子が置かれていました。(内部は撮影禁止)
しかし、何といってもこの天主堂の特徴はその立地でしょう。山に囲まれた羊角湾の畔、漁港の街の家並に囲まれて建つ天主堂は他に類を見ません。天主堂の裏山には、仏教徒とキリスト教徒が混在する墓地があります。毎朝、港を出る船人は、漁の安全を祈念して、必ず天主堂に頭を下げるといいます。港の人と共にある天主堂なのです。(2010年5月)


















































西海の教会堂を訪ねて その13 船隠教会堂、浜串教会堂、福見教会堂(五島、中通島)

2018-05-17 | 教会・天主堂を訪ねて
上五島、北の玄関、有川から島を縦断して奈良尾に行く道。その12では、島の西側の入江を縫う国道384号の道を辿りました。今度は島の東側の道、県道22号を行きます。こちらは、海岸が切り立った崖で、道はその上、高い所を走っています。ですから、道から見渡せば、そこは格別の海の風景です。





















所々の入江に集落があって、そこに行くにはくねくねとした道を下って行かなくてはなりません。鯛ノ浦を出て南下すると、船隠、浜串、福見と集落が点在します。
浜串は、けっこうな人家がある漁港ですが、後の二つは小さな漁村。いずれも住民のほぼ100%がキリスト教の信徒だといいます。
船隠。江戸時代キリシタンが船を隠して潜んだ所だったのでしょう。そんなことを思わせる地名です。ほんとに小さな漁村。数十軒の家、それも最近は空家が目立つといいます。真っ白なコンクリートの天主堂。昭和31年に建てられたものです。滅多に無いと思われる村外からの訪問者も、村の人から声をかけていただけるのです。そんな静かで、暖かい人の住む所です。
浜串。ここには、明治32年、初代の天主堂が建ったそうです。現在の聖堂は、昭和42年の建立。コンクリート製のやや味気ない素振りを見せています。ここの住民の殆どは、大型巻き網船の乗組員。1ケ月沖に出て操業。満月の頃に帰港し教会に集うといいます。教会はさぞ賑やかな集会場となることでしょう。
浜串港口に、希望の聖母像があります。航海の安全を祈り、出船、入船を見守っています。

福見。小さな平地と畑がありますが、多くの住民は漁業に拠っているようです。大正13年、献堂されたレンガ造の立派な天主堂があります。傷みが著しいようで、聖堂の半分は、コンクリートで補強されているようです。窓や扉は、すべてアルミ製に取替えられています。ちょっと残念な気もしますが・・。
祭壇の前におられたシスターから「こんにちは・・」と声を戴きます。朝昼夕、シスターの手によって鳴らされるアンゼラスの鐘の声が、小さな村に響き渡るといいます。そんな、上五島の海の傍です。



希望の聖母像














岩瀬浦付近の海




福見付近の海




福見天主堂


























上五島、中通島の旅は終りました。
行きの海は凪のように静かでしたが、帰りはけっこう荒れた海でした。船底に叩きつける波の圧力と音に、時々驚かされながら・・夢のような、多くの天主堂の姿と、親切に道を教えてくれた人、話しかけに気安く応じてくれた人、シスターの柔らかな表情・・、そんなことを思い出していました。・・やがて、軍艦犇めく佐世保の港です。(2009年11月)