枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その12 中ノ浦教会堂(五島、中通島)

2018-05-17 | 教会・天主堂を訪ねて
上五島、中通島の北の玄関、有川から島を縦断する国道384号に沿って、南の玄関、奈良尾まで、半ばを過ぎた辺り、美しい入江に面して白い天主堂が見えてきます。大正14年献堂の中ノ浦天主堂です。素朴な木造の天主堂ですが、昭和41年に正面入口と鐘塔部分が増築されています。同時に堂内の天井にも手が入れられたようで、信者席部分の折上天井と内陣部分のリブ・ヴォールト天井が同居しています。それでいて、内部空間に大きな破綻はなく美しく仕上げられているように感じます。外面も素朴で、当初からと思われる側面入口の造作も見事です。
このお堂、内部に入ったときの印象、一瞬、鉄川与助の設計と思いました。そうではないようですが、話によると、鉄川が大正9年頃、下五島の久賀島に建てた細石流(さざれ)天主堂(平成3年の台風で崩壊、現存せず)によく似ていると言われます。残された写真を見ても納得できます。ことによると、鉄川の天主堂の影響を色濃く受けたお堂なのかもしれません。
お堂の横に、一際美しいマリア像があります。

付記:猪ノ浦天主堂

有川から南へ向う国道384号で青方を過ぎ、西に向う道に分岐。静かな山の中の道を経て、細い猪ノ浦の入江に面した寂しい集落、そこにある天主堂を訪ねました。実はここには、昭和22年古い民家を移築した天主堂があったのです。ある写真家の撮ったその天主堂の佇まいが、あまりに素晴らしいものであったので、心に残っていました。もしや、その片鱗でも残っていないかと・・。
空しい期待でした。新しい簡素な教会堂の前で、管理されている女性(おそらくシスター)とお話しました。「ああ、昔のお堂、傷みが激しくてねー、もう20年も前になるでしょうか・・多くの方の寄付を戴いてこの教会が出来ました。古いものはもう何も・・」
古いものに感傷をもとめるのは、旅のよそ者。私は、申し訳ないことを言ってしまったようです。「どうも、すいませんでした・・」、祭壇に手を合わせてそこを去りました。(この天主堂の写真は載せません)(2009年11月)

























































西海の教会堂を訪ねて その11 頭ケ島天主堂(上五島、頭ケ島)

2018-05-15 | 教会・天主堂を訪ねて
頭ケ島(かしらがじま)は、今でこそ橋で中通島と繋がっていますが、天主堂が建てられた当時は、早い潮流の瀬を船で越えなくてはなりませんでした。大正8年の献堂。鉄川与助が建てた13棟目の天主堂。島で採れる砂岩を使った鉄川唯一の石造。現在でも石造の天主堂は西日本では、ここしかないそうです。
私にとって、今回の上五島の天主堂の中でも、最も期待の大きかったお堂。まず、外観の重量感、石の持つ独特の表情に圧倒されます。そして、その扉を引いて堂内に入れば、そこは優しさの極みの世界なのです。
天井は、木造船の船底の肋材をイメージするとも言われる、二重の持ち送りハンマービーム架構で折りあげられた独特の形。そこに散らされる鉄川の天上の花。それは、椿にも菊にも見えるのですが、鉄川の故郷の地を歩いて見れば、それが椿のイメージ化であることを確信します。それほどに、島ではどこにでも椿が咲いているのです。
この天主堂は、フランス人神父の影響から解き放され、鉄川が最初に到達した独自の世界・・と評されることがあります。しかし、この工事は資金難から、二度の中断を含め11年を要しています。ということは、着工は、青砂ケ浦天主堂と同時期ということなのです。晩年の鉄川は、この天主堂のことを、一番懐かしみ、また多くを語ったといいます。工事の苦労ととともに、その成果に最も自信を持ったお堂であったのでしょう。
青砂ケ浦天主堂とともに、上五島にある二つの国指定重要文化財の一つ。

天主堂は頭ケ島の海岸の谷の底にあります。お堂の前の白浜の集落は10戸足らず。これが、島の家の殆どです。海岸には、十字架が並ぶ広い墓地があります。永遠に残る天主堂を・・と望み、自ら石を運び、積んだ人々はここで眠っています。

天主堂の門前に、立派な家と陶器の展示場がありました。招き入れられて、見せていただきます。陶器の間には、百合と薔薇、そして天主堂の写真も飾られていました。50歳過ぎとお見受けしたご主人。「島の土で焼いています・・3年前、妻と一緒に、香川県から越してきましてね・・」訪れる人も少ないこの地、でもきっと、この天主堂の前は、長年の憧れの天地であったことでしょう。遠くをみるような、穏やかな輝くご主人の目が印象的でした。(2009年11月)





























































































西海の教会堂を訪ねて その10 旧鯛ノ浦教会堂(五島、中通島)

2018-05-13 | 教会・天主堂を訪ねて
上五島、鯛ノ浦は、昔より特に熱心なキリスト教信者の多い地域と言われます。明治14年に既に聖堂がありましたが、明治36年に建替えられたのが、現在旧鯛ノ浦天主堂と呼ばれる建物です。設計はペルー神父と推定され、野原棟梁のもと若い鉄川与助も建造に参加したといいます。本体は木造瓦葺です。
現在正面に見える赤いレンガ造りの玄関(ポルチコと呼ばれます)、それは鐘楼も兼ねていますが、昭和21年増築されたものです。この部分は鉄川与助の施工。長崎の原爆爆心地の近くで全壊した浦上天主堂のレンガが使用されているといいます。この旧浦上天主堂のドーム部分は元々鉄川の施工。原爆で40mも飛ばされても、壊れずそのまま残ったそうです。鉄川が籠めた思いようなものを見る気がします。
昭和54年、新しいコンクリートの教会堂が隣に建てられ、旧天主堂は今は資料館として使用されています。内部に入ると、外観からは想像できない壮大な空間です。特に、多少汚れが目立つものの、リブ・ヴォールト天上の美しさには目を見張らされます。

天主堂の横には、五島所縁の功労者の銅像があります。明治18年事故により殉教したプレル神父、二十六聖人の一人ヨハネ五島草庵、ドミンゴ森松次郎、そして、多くの宗教画や聖像、レリーフを残した中田秀和画伯です。4人の銅像の横の崖に沿ってルルドがあります。中田秀和の設計、監督により昭和38年に完成したもの。キリスト教徒が、無原罪の御宿りの聖母と呼ぶ マリア像とそれに手を合わせる少女、あまりに美しいその面差しに・・心打たれます。(2009年11月)


























































西海の教会堂を訪ねて その9 大曾教会堂(五島、中通島)

2018-05-11 | 教会・天主堂を訪ねて
上五島、中通島、青方の港の入口付近、小高い丘の上に赤いレンガの天主堂が見えます。大曾(おおそ)天守堂です。この天主堂の周りの大曾の集落は、長崎外海から移住したキリシタンの子孫ばかりで総てが信徒であると言われる所。明治12年に最初の聖堂が建てられましたが、この立派な天主堂は、大正5年の献堂。鉄川与助の建てた9棟目のお堂です。
正面には、訪れる人を迎え入れるように、両手をいっぱいに広げたキリスト像。その姿は、遠くからお堂に近ずくときもづっと見えていました。長崎の早岐(はいき)から運ばれたレンガを用い、その色の濃淡と配置の工夫により外壁に立体感と装飾性を齎しています。鉄川が建てた同時期の天主堂、田平や頭ケ島とは、もちろん頭ケ島のそれは、石造という素材の違いがあるのですが・・、正面中央に八角形のドームを有するなど、共通するところの多いデザインであることに気づかされます。
重層構造、内部は三廊式。主廊、側廊ともにリブ・ヴォールト天井。柱頭の彫刻は与助の父、与四郎の作といいます。以前に見た写真とは印象を異にしていました。白色に塗られていた柱や天井の木部が、当初の木の色に戻されていたのです。ああ、あの鉄川の天上の花は、リブ・ヴォールトの中央で白や赤や青の花弁をもって遠慮勝ちに咲いていました。桜の花をデザインしたドイツ製のステンドグラスが何とも美しいのです。
この一輪の精華のような美しい天主堂。去る道道で振り返りながら、その海を越した姿に名残を惜しんだものでした。(2009年11月)





















































西海の教会堂を訪ねて その8 青砂ケ浦天主堂 (五島、中通島)

2018-05-09 | 教会・天主堂を訪ねて
青砂ケ浦(あおさがうら)天主堂 。上五島、奈摩郷青砂ケ浦の地に、明治43年の献堂。鉄川与助、3棟目の天主堂です。重層屋根構造、レンガによる帯状装飾によって3分割され、バラ窓や縦長アーチ窓によって飾られた外観。さらに細かく見れば、色の違うレンガと石材を多用した窓周り、入口周りの立体感に惹かれます。内部は3廊式、主廊部、側廊部ともに漆喰仕上げの4分割リブ・ヴォールト天井。高く美しい天井に迎えられ入堂すれば、その荘厳さに声を失うほどです。日本人設計者の手で建てられた最初の本格的天主堂と評されるこの御堂。国重文指定。

私が訪れたのは朝。奥様方4、5人が掃除の最中でした。赤ん坊を背負った方もいます。
「ごくろうさまです。素晴らしいお堂ですね・・・」と声を掛けます。恥ずかしそうに頷いて手を動かされているだけでした。

ここで、五島とキリシタンの係わりについて記しておきましょう。

五島のキリシタンの歴史は、江戸時代中期、寛政9年(1797)、大村藩内外海(そとめ)地方(現長崎市)の信徒を開拓のために五島に移住させたのがその始まり。それを契機として、信仰の自由をもとめた移住者は3000人を超えたと言われます。
そのころ歌われた俗謡・・
        五島へ五島へと皆行きたがる
        五島はやさしや土地までも
        ・・・・・
        五島は極楽行ってみて
        地獄よ地獄よ
        二度と行くまい五島の島へ
江戸時代を通じての禁教の間、西九州の各地に隠れ住んだいわゆる「かくれキリシタン」。明治6年、禁令が解かれるまでの250年もの長い期間、その信仰を保ち得たということ。それは驚くべきことです。江戸時代の初め、外海に居て殉教したというバスチャンという名の日本人伝道士。「バスチャンの予言」という言い伝えがあったそうです。それは、7代の後、神父が黒船に乗ってやってくる・・やがて、大きな声でキリシタンの歌が歌える時代が来る・・といった予言。250年の間、かくれキリシタンの心を支えたと言われます。かくれキリシタンが露見し弾圧される事件を、キリシタン側では、信仰組織の破壊と見なし、「崩れ」と呼んだそうです。それは、江戸中期の浦上1番崩れから明治3年の4番崩れまで続きます。明治の世になる直前、これらの弾圧を避けて、五島 に逃亡した森松次郎は、有川蛤や頭ケ島に居を構え、五島各地に潜むキリシタンをまとめたと言います。バスチャンの予言の通り、すでに長崎に建てられたフランス寺(大浦天主堂)に来ていたプチジャン司教に来島を依頼します。来島した司教の代理クザン神父からミサと洗礼を受け、多くのかくれキリシタンは、教会に復帰した復活キリシタンになったと伝えられています。

・・それから、五島の島々の入江、入江に多くの天主堂が建てられました。そうですね・・。大きな声でキリシタンの歌が歌える世になったのでしょうね。(2009年11月)