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やっと普通の生活に

2014-05-01 | 日記

 先日、息子宅で。ご機嫌な孫息子。


 

ずっと引きこもって旅行の写真整理、それも終わったので、たまった用事を片付ける。

美容院→

写真のプリント→

デパートで安野光雅展見る→

デパート内郵便局で配当受け取り(雀の涙ながらありがたく頂く)→

ブラウス一枚買う。花柄とペーズリー柄、迷って花柄に。私のキャラじゃないし、パジャマみたいな柄。でも後悔しない。最近は何でも縁がなかったと流すのもうまくなった→

お嫁さんに誕生祝いの商品券、書留で送る→

15時ころ遅い昼ご飯食べて休んでいたら息子一家全員がいきなりやってきてビックリ仰天。なんでも今日は創立記念日で仕事は休みだとか。買っていたおもちゃを渡す。しばらく遊んで、下の孫にバナナを切って食べさせていたら、上の孫も横に並んで口を開ける。物が言えなくなって、ハイハイしかできなくなって赤ちゃん返り。笑ってしまった→

近所のショッピングセンター内にベビー用品の店ができたそうで、子供家具を買いに行くと帰って行った→

やれやれ、急いで晩御飯作って食べていたら息子から電話「携帯忘れてない?」→

再び電話。「二階にあった」って、まだそんな歳ではなかろう。やれやれ。

なんか疲れた。次、三男からは連休の予定の連絡なし。次男も三男もこの間会って話したから別にもういいかな。

きょうは孫二人の「あーーーん」した口に交互にバナナを入れてやり、とても幸せな祖母でした。二人とも元気いっぱいに大きくなっています。

来週は実家の母が遊びに来る。私も長生きしてひ孫に出会いたいものです。

母の兄、私からいうと伯父は先日93歳で亡くなった。遠いので葬儀には行かず、母に香典をことづけた。


 

伯父は中国戦線で生き残り、1946年に復員したと聞いている。その戦争体験は華南をとにかく歩かされたということ。遠くにかすんで見える山に近付き越えていくと、そこにはまた別の「王様みたいな人がおるんや」。広い中国を占領するなんて土台無理な話、と兵としての伯父は実感したのではないだろうか。

伯父が生きて帰れたのは、何よりも並外れた体力のたまものだろう。子供のころから山坂を駆け巡る田舎の暮らしが強靭な体力を作っただと思う。どこの戦線でも同じと思うが、歩けなくなって落伍した兵は置いていく。置き去りなにされた者で生きて復員できた人はほとんどいなかったのでは。歩けるか歩けないか・・・これが運命を分ける。

安逸な暮らしをしている今、その厳しさをちょっと思ってみた。

子供のころ、秋の夕方、母に連れられて里帰りすると、叔父がバスの終点まで迎えに来てくれていた。バス停からは30分くらいかかったかな。自転車を押してかすかに明かりがつくのを頼りに叔父の家まで行ったことを思い出した。

結婚して41年間、毎年富有柿を送ってくれていた。去年も貰った。従兄がなくなり、叔父も亡くなって、従弟が柿畑の世話はするらしいが、もう去年が最後だったと思う。

いつかは終わりが来ると思っていたけど、若い頃は柿が嫌いで食べなかったけど、やっと食べられるようになった矢先の伯父の他界、今さらながらに祖父母に替わっていろいろよくして貰ったなあと感謝の気持ちが蘇った来た。


子供のころ、伯父が我が家に来るときには、背広の上下に黒足袋と下駄、自転車で20キロの道をやってきた。洋服に下駄っておかしいけど、田中角栄も庭の鯉に餌やるときは背広に下駄ばきでしたよね。下駄はどこの家にも標準装備。昔は私の祖母もスーツ着て、先割れの靴下に草履で外出してましたもんね。

洋服に草履、私もやってみようかしら。髪はもちろん染めずに後ろでお団子一つ。地味な巾着の袋の中には何入れましょうか。携帯にパスポートに€だな。その格好で海外旅行したら面白いかも。というか危ない人の扱い。旅行会社のブラックリスト入りで、二度と連れて行ってもらえないかも。


とにかく親の世代もどんどんあちらへ行ってしまうから、とりあえず、生きてる親を大切に。元気で娘の家まで来られる母親をありがたく思わねば。

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