2014年10月 香川県三豊市粟島で
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今年も発表になった。いつのころからか、日本人作家が下馬評に上がっているらしい。前もって候補者が公表されるわけではないので、候補だと言われてもご本人も迷惑だと思う。それとも期待しているのかな。
毎年、喫茶店みたいなところに何人か集まり、スマホの画面見てがっかりと言う映像。それ見るこちらもがっくり。選ばれなかったのにがっくりするんじゃなくて、他に映像ないんかい?とか思う。
小説は一人で読んで一人で感動するものだと私は思っているので、集まって語り合うのに多少の違和感が。そして、その場の雰囲気がもっと違和感が。いえいえ、私も若い頃、似たようなことしていたので、今見ると昔の自分を見ているようで冷や汗が出る。
男は女にもてたいがために文学がどうこう、女は男に認められたいがために、黙って言うこと聞く。ああ、恥ずかしい。
「最近行き詰ってて書けないのよね」・・・そりゃ、草野球の選手にもスランプはある。気取るんじゃないよとその時言えたらすっきりしたはず。言えなかった私も縛られたた。今思えば。
ええい、ついでに言わせてください。。あのテレビ映像には自分の人生が苦しくて、指針になる言葉が欲しくて、やっと探し当てた小説に助けられたという必死さがない。いや、そんな人はテレビには映りたがらんでしょう。いやいや、こんなこと言うのは前世紀の古い文学感かもしれない。
文学にだっていろんな消費のされ方がある。しかし、かの賞は、民族の困難、時代の困難を人間としてどう乗り越えていくか、といったメッセージ性のある国民文学に与えられるものと私は思っている。
若い頃、私も読んでました。
都会に、おしゃれな生活にまだ憧れていたころ。でも小説の中の人は自分から状況に働きかけることをしない。時代の、都会の表層を漂っているだけ。生活の苦労も、家族の軋轢も何にも書かれていない。だから、それに苦しむ人間への救いの言葉もない。戦争もない。戦争に苦しむ人も出てこない。
ねじまき鳥なんとかという上下巻までは私も付き合いました。そして、もう読みたくないと思ったのでした。
構えの大きな作品、時代の苦悩をわがこととして書く作家、そういうのが賞にふさわしいと愚考しています。日本人では誰でしょうか、林京子と言う人もいますが、今はちょっと思い浮かびません。
スリーマイル、チェノブイリ、福島・・・時代の不安として、それでも未来を切り開く希望が文学的に昇華されるなら、あるいは・・・・