里山悠々録

里山の家と暮らし、田んぼや畑、そして水墨画のことなどを記録していきます

鎮魂の日に哀悼の誠を捧ぐ

2019年03月11日 | 暮らし
 今日は久しぶりに本降りの雨となりました。暴風が吹き荒れる予報も出ています。涙雨か恨みの雨か。怒りの雨でしょうか。
 2011年3月11日午後2時46分。
 私は、仕事の関係で仙台市の地下鉄駅から出たところで巨大地震に遭遇しました。
 1978年6月12日の宮城県沖地震も経験していますが、それを遙かに上回る巨大地震です。立っていることはもちろん不可能で、座り込んでも体が大きく振り回される状態でした。かなり長い時間続きました。誰もが大きな災害になると直感したと思います。
 何はともあれ、仕事先の場所まで急ぎました。途中、ビルそのものが倒壊したのは目にしませんでしたが、壁が落ちたり、看板が落ちたりというのはかなりありました。
 仕事先のビルの前には沢山の人だかりです。建物の中に入ると水道管が破裂したためか天井付近から水が滴り落ちていました。エレベーターは動きませんから、用事のある階まで緊急用の階段を駆け上がりました。

 もちろん仕事どころではありません。停電になっていましたが、そこのビルは自家発電があるためテレビを見ることができました。当県では全ての地域が停電になっていましたから、その時間にテレビを見ることができた人間は少なかったはずです。
 そして、地震後数十分経過した頃から津波の様子がヘリコプターからライブで放映されたのです。それを見たとき、これが現実のこととはにわかには信じられませんでした。
 津波というとすぐリアス式の三陸沿岸の皆さんはうまく避難できただろうかと心配になりますが、この時ライブで映し出されたのは、これまで津波に縁が薄い比較的なだらかな海岸の中南部だったのです。多くの車が激しい津波に流されて自動車道の法面に打ち付けられる衝撃的なものでした。

 東日本大震災の人的被害のほとんどは津波による犠牲者です。本県だけで死者行方不明者1万人を超える大惨事です。いまだに行方不明者が千人以上いるのです。
 私の家族や親戚で亡くなった人はいません。内陸部の私たちは、家族を亡くした方の本当の心情を理解するのは難しいのかもしれません。しかし、かつての同級生や同僚で亡くなった方がいます。それを知ったのはかなり後のことです。また、かつての同僚の家族、仕事でお付き合いのあった知人や家族なども犠牲になりました。
 ただただ、ご冥福をお祈りするのみです。

 

 本日午後2時46分、改めて黙祷を捧げます。合掌。