これは読後感が重い本です。
読んで暫くズーッと心に引っ掛かっていましたが、なかなか文章に出来ませんでした。
子供のころ母親から愛されずに虐待されているかのように、しかしそれにも全然めげずに育っていた。当然ながら母親に対する感情も冷ややかで、呼び方も「母」となっている。
それが年老いてだんだん呆けてきて、次第に受け入れられるようになっていくと、「お母さん」と呼ぶようになる。それでも心の奥底では許しきれていない自分がいて、許しきれないところに罪悪感を感じている。そのころには「お母さん」はかつて愛してなかった子供にすっかり頼りきっているようになっている。
フロイトは母親と息子については考察している(エディプスコンプレックス!)が母親と娘については何も言っていない。しかしいろいろ聞いてみると母親と娘の関係は著者のところだけでなく語られることは少ないけれどいろいろあるみたい。そういえば児童虐待でも実母というのも結構あるんですよね。
佐野洋子といえば「百万回生きた猫」とか「おじさんのかさ」とかで知られていますが、こんな人生を送ってきて、ああいう作品を書くことができたのかと考えてしまいました。
それにしても子供たちにうちの両親は喧嘩ばかりしていたけど、外面は良くて、身体でつながっていたなんていわれる(中島らものところと全く反対なのですが)と夫婦の絆とは何かと考えてしまいます。
どうもこういう本を読むとそろそろ晩年というか老年期に差し掛かったせいか、両親のこと夫婦のこと子供のこととかいろいろ雑念が沸いてくるのか考えさせられるのです。
少しこの読後感の重さが薄れてきたら、次はこの著者の「私が妹だったころ」でも読んでみます。
読んで暫くズーッと心に引っ掛かっていましたが、なかなか文章に出来ませんでした。
子供のころ母親から愛されずに虐待されているかのように、しかしそれにも全然めげずに育っていた。当然ながら母親に対する感情も冷ややかで、呼び方も「母」となっている。
それが年老いてだんだん呆けてきて、次第に受け入れられるようになっていくと、「お母さん」と呼ぶようになる。それでも心の奥底では許しきれていない自分がいて、許しきれないところに罪悪感を感じている。そのころには「お母さん」はかつて愛してなかった子供にすっかり頼りきっているようになっている。
フロイトは母親と息子については考察している(エディプスコンプレックス!)が母親と娘については何も言っていない。しかしいろいろ聞いてみると母親と娘の関係は著者のところだけでなく語られることは少ないけれどいろいろあるみたい。そういえば児童虐待でも実母というのも結構あるんですよね。
佐野洋子といえば「百万回生きた猫」とか「おじさんのかさ」とかで知られていますが、こんな人生を送ってきて、ああいう作品を書くことができたのかと考えてしまいました。
それにしても子供たちにうちの両親は喧嘩ばかりしていたけど、外面は良くて、身体でつながっていたなんていわれる(中島らものところと全く反対なのですが)と夫婦の絆とは何かと考えてしまいます。
どうもこういう本を読むとそろそろ晩年というか老年期に差し掛かったせいか、両親のこと夫婦のこと子供のこととかいろいろ雑念が沸いてくるのか考えさせられるのです。
少しこの読後感の重さが薄れてきたら、次はこの著者の「私が妹だったころ」でも読んでみます。
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