浜崎ヒカル交通館ブログ

浜崎ヒカルの独り言などを載せています。

東京・横浜方面へ旅行(その3)

2015年11月12日 21時44分53秒 | Weblog
今さら8月のことを記事化してすみません。

8月5日の夜、上りの寝台特急『サンライズ瀬戸』に乗り、翌日6日の朝、終点の東京駅に着いた。
東京駅構内の飲食店で朝食をとり、丸の内側の駅舎の写真などを撮影したあとは、再び改札内に入った。
東海道本線のホームへ行き、品川行きの電車(1835Eと思われる)に乗った。湘南色の帯の入った電車だった。
その日、その電車には、女性の車掌が乗務していた。
電車は、途中、新橋に停車した。多数の下車があり、車内はかなり空いた。
その次は、終点の品川である。
品川に着くと、下車して、京急の泉岳寺までの乗車券を買って、京急の改札を通った。







泉岳寺方面へ向かう電車のホームには、次々と電車が入ってきた。
どの電車も混雑していた。
泉岳寺へ向かう電車の大半は、地下鉄浅草線へ直通しているため、品川から先も乗客は多い。
ある電車に乗ろうとしたら、満員で乗れず、次の電車を待った。

やっと乗れた電車は、京成電鉄の車両だった。
乗車後、約2分で、次の停車駅の泉岳寺に停車した。
泉岳寺駅は、京急と都営浅草線との境界駅で、地下駅になっている。





泉岳寺で下車後、改札を通り、地上へ出て、少し歩くと、駅名の由来となった寺院・泉岳寺が見えた。
そのときは、8時47分頃だった。







泉岳寺は、1612年(慶長17年)徳川家康が江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚を迎えて開山した寺院である。
1641年(嘉永18年)の大火により、伽藍が焼失した後、三代将軍家光の命により、現在の高輪の地に移転再建されたという。
赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られている。







境内には、赤穂義士の墓地や記念館もある。

午前10時過ぎまで、境内で過ごし、それから、泉岳寺駅へ戻った。
余談ながら、泉岳寺参拝中のあたりから、頻繁にトイレに行きたくなるなど、体調が崩れていった。

泉岳寺駅に戻ると、10時55分発の快速特急に乗るつもりだったが、予定よりも早く駅に戻れたので、10時37分発の快速特急に乗ることにした。
その電車は、泉岳寺が始発で、原則として、2扉オールクロスシーの2100形電車で運転されることになっている。
しかし、入線してきた電車は、3扉の600形だった。
600形は、かつては、オールクロスシートだったが、現在は、車端部を除いて、ロングシートに改造されている。
ただし、運転席のすぐ後ろの展望席風の座席は残っているので、その電車に乗車し、右側の座席に座った。車番は、605-1だった。
左側は、運転士の頭で視界が遮られるからである。



10時37分に泉岳寺駅を出発した快速特急電車は、次は、品川駅に停車した。品川では、多数の乗車があったが、ラッシュ時ではないので、それほど激しい混雑にはならなかった。
品川を出ると、電車のスピードが上がっていった。
その次の停車駅は、京急蒲田である。空港線との分岐駅である。
京急蒲田の次は、京急川崎に停車した。
その途中で都県境を越えて、神奈川県に入った。
そして、京急川崎に停車した。
京急川崎の次は、横浜である。その間も、スピード出して走っていた。
電車が横浜駅に停車すると、下車した。







そして、改札の外に出て、みなとみらい線の乗り場へ向かった。

都合により、今回は、ここまでとさせていただきます。
続きは、また後日書かせていただきます。
コメント
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