八兵衛のセカンドライフ

46歳で脳幹(橋)出血、現在72歳の車イス男性。ブログはFact is factで(事実だものしょーがねぇべ)

単身赴任の思い出:千葉編

2012年02月27日 07時11分32秒 | サラリーマン時代
東京での単身赴任も4年目の3月上旬、大手町から千葉幕張に人事異動があった。
もともと60歳までは東京で単身赴任を続ける覚悟だったから、この異動は予想どおりだった。

幕張転勤は想定内だったとはいえ、住めば都、3年間も住み親しんだ荻窪だもの、ホント離れがたかったなぁ~
業務上はすぐ千葉に引っ越ししなければいけないのだけど、
結局2ヶ月近くも荻窪から幕張に2時間かけて通勤し、千葉の単身寮に越したのは4月末のGW直前だった。

時間は前後してしまうけど、オウムの地下鉄サリン事件が起きた3月20日には、私も丸の内線を利用していた。
ただし、地下鉄霞ヶ関駅で事件が起きた8時頃は、
私は京葉線ホームに向って東京駅の通路を歩いていた頃なので、危機一髪難を逃れていたのだった。
事件を知ったのは昼だったので、ヘタしたら私も巻き込まれていたかもと後から恐しくなったものだ。

孟母3遷の故事に習い、千葉競輪場近くに単身寮があったので、
43歳で初めてケーリンを経験して、その魅力にズッポリと嵌まってしまった。
会社の仕事は大変忙しかったのだけれど、土日には首都圏の競輪場にずいぶん行ったなぁ~
今でもすぐ言える首都圏の10ある競輪場。
取手、千葉、松戸、大宮、西武園、立川、京王閣、川崎、花月園、平塚、もちろん全て行ったことがある。
一番多く行ったのは千葉だけど、松戸にもずいぶん行った。
千葉⇔平塚の時は運賃だけで5,000円以上、時間だって片道で約3時間かかったもの、今考えるとよく行ったと思う。
レース展開を自分なりに予想する楽しさが、ストレス解消にぴったり嵌まったのだと思う、正当化するようだけどね。

幕張での仕事の思い出は一杯あるけど、
千葉の単身寮生活は8ヶ月足らずだったので、JR千葉駅界隈、都市モノレールに少々思い出があるくらいかな。
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単身赴任の思い出:荻窪編

2012年02月24日 16時27分04秒 | サラリーマン時代
私は40歳から倒れる46歳までの7年間、東京で単身赴任生活をしていた。
その間、荻窪3年、千葉1年板橋3年、都合3ヶ所の単身寮にお世話になった。
娘達が中学1年~高校3年だったので、1つ歳下のお銀も、多感な年頃の娘達も、いろいろ大変だったらしい。

東京では、一応仕事もそれなりだったけど、
荻窪は単身赴任最初の街だっただけに、いろいろ悲喜こもごも思い出も詰まっている。
そのいくつかを箇条書きにしてみると、、、

 1.土曜朝仙台、日曜夜東京の里帰りをしていたけど、日曜午後に家族と別れるのは堪らなく辛かったなぁ~
    勤務先が大手町だったので、金曜午後に仙台、月曜朝に始発で東京に戻る、
    いわゆる出稼ぎ方式にしたら気が楽になった。
 2.荻窪での土日は、一応は掃除洗濯、読書、散歩、サウナ、パチンコ、酒呑み、ごろ寝、テレビ、などが多かった。
    休みの日に読書などとウソっぽく聞こえるけど、池波正太郎、山手樹一郎の時代劇小説を読み漁ったのもこの頃。
 3.お銀は何回か東京に来たけど、寮に泊まったのは最初の1回だけで、
   単身寮の自屋は小汚く手狭だったので、あとはホテルに宿泊した。
 4.荻窪は特に駅北口にラーメン店がかたまっていて、
   魚介系醤油のいわゆる東京ラーメンに煮卵を入れて、よく食べ歩いたものだ。
 5.同じく駅北口のあるビル全体が健康ランドになっていて、
   サウナ、食事、カラオケ、映画、宿泊もOKなので、回数券を買って土曜日夜はよく利用していた。
 6.荻窪―大手町の通勤は、朝時間余裕のない時は東西線で、
   余裕のある時は始発なので座って寝て行ける丸ノ内線を利用していた。
   帰りは、神田西口商店街でよく呑んで帰ったので、JR中央線が多かった。
   ↑のように通勤ルートはいろいろあったので定期券を買わずに、イオカードで今日もニコニコ現金払いしていた。

品行方正な単身生活なほうだったと思っているけど、『本当?』と、お銀は天国でニヤニヤしているかも。

    ほんの短い夏

   ps:よく行った健康ランドが懐かしいのでネットで探してみたら、今は『なごみの湯』に名前は変わっていた。
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ブリの刺身

2012年02月01日 12時01分17秒 | サラリーマン時代
今朝のはなまるカフェのゲストは、勝野洋さん父娘だった。
勝野洋さんというと『太陽に吠えろ』のテキサス刑事だけど、
私にはオッス、チュウ、カーコの『俺たちの朝』のほうが思い出深い。

当時入社1年目、最初の赴任地名古屋の独身寮でのできごと。
私達同期3人はいつも日曜夕食を欠食して、呑みながらこっそり部屋でスキヤキパーティを開いていた。
夜8時からの『俺たちの朝』を見終わってから、まだ結婚前だったので仙台のお銀へ電話するのが常だった。

ある日曜の夜、美味そうなブリの刺身を誰かが仕入れた。
その翌朝、寮のトイレでゲッソリした同期3人がハチ合わせして、
『おまえトイレに何回行った? オレ、18回・・』・・以下、省略

その日以来、私はブリ、はまちの刺身が大嫌いになった。
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コーヒーはブラックに限る

2012年01月31日 06時26分29秒 | サラリーマン時代
入社7年目の花小金井時代、娘達がまだ3歳の時、私は武蔵野通信研究所に異動した。
転勤して1ヶ月が過ぎた頃、突然私は40度近い熱を出した。

多分風邪だろうと家で寝ていたのだが、そのうち高熱のあまり天井が歪んできた。
ことここに至ってはと119して、武蔵小金井駅前の病院に入院することになった。
解熱の点滴を受けたけど、高熱は全く下がる気配を見せなかった。

入院して3日目くらいに、同じ研究室の人達がお見舞いに来てくれた。
その時、私が発熱する前の日にゴキブリ駆除のために、研究室内を大規模消毒した話をしていた。
その話を聞いて、机の私専用のモスグリーンマグカップが妙に白っぽかったのを思い出した。
その時はクリープの粉でも付いていたくらいに思い、そのまま洗わずにコーヒーを入れて飲んだのだった。

主治医にその話を伝えたところ解熱薬の種類を変えて、めでたくも一発で熱が下がり、次の日退院した。
研究所への転勤直後だったので知恵熱・・とからかわれたけど、これ以来コーヒーはブラックを信条にしている。

 ps1:お銀と娘達が手を繫いで病院に毎日来てくれたことを、今でもよく覚えている。
    あの頃は娘達もまだ小さかったし、当時お銀には大変な思いをさせてしまった。

 ps2:昔から私はモスグリーンが好きで、学生の頃はお銀とモスグリーンの揃いのブレザーを着ていた。
    当時のマグカップも、PCのメアドも、このブログの基調色も、そんな訳です、ハイ
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盲パイの思い出

2011年06月25日 06時57分42秒 | サラリーマン時代
今朝もいつものようにマヒ手足の脱皮感覚を楽しみながら、布団の中でまどろんでいた。
名古屋時代のマージャンのとある振り込みシーンが、突然脳裏に浮かんだ。

半チャンが始まって早々に、私の指導者で上司の係長が、親でダブルリーチをした。
そう、イッパツで振り込めば役満=地和(チーホウ)か人和(レンホー)の役満。
その場の芸者だった私は降りたつもりが、イッパツで振り込んでしまった。
30年以上過ぎても忘れられない、親の『東』単騎待ちダブリーに、芸者でまさかの一発!

満貫が8000点だから、親は5割増しで12000点、役満はそれの4倍だから48000点。
しかも、振り込んだ私が芸者だったので、さらに2倍の96000点。
持ち点は1-2-5-10、26000点持ちの30000点返しだから、3万点以上の振り込みは即ハコのドボン。
そこにドボン(箱点)のペナルティ=10000点が加算されるので、ひと振りが都合10万6千点。

テンピン(1000点―100円)でやっていたので、ひと振りがなんと1万600円。
大衆キャバレー(ハワイ・グアム)に夕方6時前に入れば1000円の時代に、自業自得とはいえトホホ。
品行方正だった新入社員がその後どう成長していったのか、それは想像に難くない。
でも1年後東京に戻って、その後しっかり結婚できたとさ。

何故、昔打ったマージャンの振り込みシーンが浮かんだのか。
それはマヒ側親指の腹に、『東』をモー牌した時の感覚が蘇ったからだ。(八の字に似たヒゲの字画)
そういえば、あの時の振り込みも東タンキだった。
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昼食会

2011年05月12日 05時49分10秒 | サラリーマン時代
「感無量」繋がりになるけど、長女結婚式の1週間あと、しかも場所も同じ仙台国際ホテルで、
もと上司の杉本さん(数年後に社長に)が私とお銀のために、わざわざ昼食会を開いてくれた。

杉本さんを上司に私が仕えたのは平成7年、その後私の所属はいろいろ変わったけれど、
平成18年3月に退職するまでの10年間、私の心情としてはずーっと杉本さんの部下だったと思う。

平成10年1月に脳幹(橋)出血に倒れ、99%会社復帰が危ぶまれた時も、
『八兵衛くんの人件費くらいなんとかする。死んだつもりでリハビリを頑張ってみろ!』と激励してくれ、
そしてその後の復帰に際しても、多大なる御尽力を戴いた。
杉本さんからは、どんな山よりも高く、どんな海よりも深くて大きい御恩を戴いた。

仙台は東京から新幹線で2時間とはいえ、仙台で昼食会をするには丸1日のスケジュールになる。
娘の結婚した記念の場所で、杉本さんから退職をねぎらって戴き、まさに感無量の昼食会だった。

 ps:杉本さんの部下でいられて、本当に幸せだった。
   陰ながら、末長いご健勝と会社のご発展を祈る。
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初めての外国出張

2011年05月12日 05時28分36秒 | サラリーマン時代
一人旅と言うと気楽な響きがあるが、カタコト英語をチョコっとしか話せない悲しき身であるも、
ロンドン、パリ、ベルン(スイス)、ダルムシュタット(西ドイツ、フランクフルトの近く)、4ヶ国への一人での外国出張だった。

昭和60年当時だからヨーロッパへはアンカレッジ経由が一般的で、時間もほぼ丸一日18,19時間もかかった。
行きの機内でワインを呑み酔って寝ようとしたけど、緊張で全然酔えないし、眠ることも出来なかった。
ボーッとした頭で北極海の白一色の氷を眺めていたら、
そのうち夜明け前のスキポールに着いたので、ブラックコーヒーを立て続け2杯飲み眠気を醒ました。

帰国はフランクフルト発のアンカレッジ経由だったが、
出張を終えた安堵感からかワイン2,3杯で眠りこけ、アンカレッジで起こされたほどだった。
だから北極海どころかKLMのスチュワーデスが美人だったか否か、全然記憶に残っていない。

出張収支が約40万円の大赤字だったので、のちにお銀から大目玉を喰らうことになった。
セカンドバッグ1つくらいじゃ、ゼッタイに誤魔化されない!、ってね。
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チャイム代わりの『木綿のハンカチーフ』

2011年05月11日 12時54分08秒 | サラリーマン時代
私が入社した会社では、入社式が終わったその足で、
3ヶ月間の社内学園生活に直行させられて、その後全国各地へと赴任して行くのだった。

当時の学園では、毎朝始業前になると『木綿のハンカチーフ』をチャイム代わりに流していた。
私も3ヶ月間毎朝『木綿のハンカチーフ』を聴いて、そして最初の赴任地=名古屋へと行ったのだった。

この時はまだ独身で、名古屋(私)-仙台(お銀)の長距離恋愛を2年経験した。 
木綿のハンカチーフの最終歌詞と違って結婚したのだけど、それ以外はホント歌詞そっくりの生活だったなぁ 

   雨だれ
   木綿のハンカチーフ
   赤いハイヒール
   ドール
   しあわせ未満
   九月の雨
   最後の一葉
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