内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鏡の中のフィロソフィア (承前)― 講義ノートから(3)

2013-06-12 20:00:00 | 哲学

 この夏の集中講義は7月末から8月初めにかけての5日間。最近は哲学科修士でもフランス語が読める学生は少ないとのこと、この集中講義は原書講読のための演習でもないので、参考文献はできるだけ邦訳のあるものを使うことにしている。それに履修者たちの専攻は、時代・言語・対象いずれもさまざまなので、フランス近現代だけに話が偏り過ぎないように配慮する必要もある。演習の目的は、あるテーマあるいは対象に絞って哲学史を通覧しつつ、その中で繰り返し問われる問題を取り出し、その問題が時代によってどのように変奏されていくかを見ていく中で、哲学的問いの立て方を学ぶことにある。1コマ90分、1日3コマ、5日間で15回分の授業をするので、学生たちにとっては集中力を持続させるのが相当に大変だとは思うが、授業のどこかで、これから自分で問題を見つけ、自分の力で考えていくためのヒントを摑んでくれればよいと思っている。知識の集積が目的ではない。それだけなら自分独りで系統的に文献を読んだほうが速く目的に達することができる。以下が今年度のシラバスに掲載されている講義内容紹介。 

 昨年度に引き続き、人間の認識モデルとしての〈鏡〉についての哲学史的考察を行う。今年度は中世からルネッサンスへの転回点に位置するニコラウス・クザーヌスから現代の認識論までを対象とする。
 鏡に映された自らの顔を見ることで、その顔に与えられている、何かの像としての身分が見る者自身にそれとして自覚される。この自覚から、人間をその内に含んだ世界全体も、それとして在りつつ、それはまた同時に何かの像である、という思想がクザーヌスにおいて生まれてくる。このようなパースペクティヴにおいて、現実の世界の成り立ちを解明することは、二重の意味を持ってくる。一つは、世界の諸々の現象をそれらに固有の法則に従って解明することであり、もう一つは、そのように解明されることを待っている世界を、それ自体としてはそのまま与えられることのない何ものかの像として受け取り直すことである。前者の対象的理解の努力が、世界の諸事象の科学的解明への途を開く一方で、後者のいわば超自然的な受け取り直しが、世界という像がその一つの〈うつし〉であるところのものの形而上学的探究として展開される。このような二重性を持ったクザーヌス的な観点を起点として、世界と人間とについての認識論的構図の変化を、近代から現代へと哲学史の中で辿り直してみよう。
 「汝自身を知れ」というアポロンの神殿に刻まれた古代ギリシアの格言が、『アルキビアデス』の中のソクラテスによって、「汝自身をいかにして見ることができるか」という問いに変換されたのを昨年度の演習で見たが、この問いが、今日私たちが日常的に使用している姿見としての鏡の制作技術が確立され、それが工業化され、鏡の所有が大衆化していく近代を通じて、自己の鏡像をめぐる問いとして反復され、「鏡の中の汝は汝自身なのか」「汝は何かの〈うつし〉なのか」「鏡像は実像なのか、虚像なのか」「鏡に映らぬ汝はどこにいるのか」など、様々な形に変奏されていくのを今年の演習で私たちは見るだろう。