内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

食をめぐる哲学的考察(2)

2013-06-14 20:00:00 | 食について

 今週に入って、夏の陽射しはまたどこかへ遠ざかってしまった。今日13日は朝から曇り、昼前になって雨が降り出し、午後5時頃まで降り続ける。気温は日中を通じて18度前後。雨があがると、それまで西空を覆っていた厚い雲の間に青空が広がり始め、室内に柔らかな光が射し込んでくる。

 来週火曜日の追試の試験監督まで大学に出向く必要がなく、この期間に28日の発表原稿をあらかた仕上げてしまいたい。数日前から、上田閑照の『哲学コレクションI 宗教』を読み直していて、その師であり、同書にも何箇所か引用されている西谷啓治にも発表で言及しようとは思っていたが、昨日になって、やはり同書に引用されている井筒俊彦にも言及することにした。そのほうが議論により広がりと奥行きができるからだ。とはいえ、発表の主たる目的は、あくまで日常の日本語の語感と用法から、いわば日本人の集合的・共同的深層記憶の中へと入り込み、そこから「虚」「空」「無」という語に込められた思想を取り出すことにある。

 以下は「食をめぐる哲学的考察」の第2回目。読み直しながら、食を分かち合うことの喜びを一緒に暮らしながら私に教えてくれた人のことを思う。

 「同じ釜の飯を食う」― この表現はどのような経験を意味しているのであろうか。同じ食べ物を複数の人間が分かち合って食べるというのが字義通りの意味だが、そこから拡張されて、食事も含めて一定期間共同生活を行うことを意味することもある。「同じ釜の飯を食った仲」という表現もよく見かけるから、そこには人間関係形成上特に重要な契機が含意されているようだ。
 しかし、もともと一緒に暮らしている家族やカップルについてはこうは言わない。そこにはどんな違いがあるのか。一般的に共同生活を話題とする場合、そこでは食以外の日常生活習慣も共有されている一方、他方では、字義通りに食事を共にしているとは限らない。ところが、「同じ釜の飯を食う」という時には、食べ物だけでなく、食事の時間を共有するということがそこには含意されている。言い換えれば、一つ屋根の下に一緒に暮らしていても、食べ物はばらばら、食事時間も別々では、この表現は適用されえない。いや、食べ物が同じでも食事時間が共有されていなければ、この表現が表そうとしている食行為の共同性の条件を満たしていることにならないだろう。しかも、同じ食べ物と言っても、外で出来合いのものを買ってきて一緒に食べただけでは、やはり完全にその条件を満たしたことにはならないだろう。
 以上のように考えてよいのなら、「同じ釜の飯を食う」ということが成立するためには、以下の三つの条件が満たされなければならないことになる。同じ物を食べること、その食べ物は自分たちあるいはその共同生活に給仕担当として参加している誰かによって調理された物であること、同じ時間に一緒に食べること。これを概念的に簡略化してまとめれば、物質的・行為的・時間的共同性という三重の共同性が「同じ釜の飯を食う」ことの成立条件だと言うことができるだろう。
 しかし、それだけのことならば、食以外にもこの三条件を満たす共同的行為はある。例えば、農作業、手工業のような協同的な労働、教室での学習、スポーツなどがそうであり、他にもあるであろう。つまりこれら三条件を満たしただけでは、「同じ釜の飯を食う」という表現が表そうとしている経験の固有性にまだ届いていない。「同じ釜の飯を食う」ことがそれへの参加者たちに、その参加期間中だけではなく、その共同性が現実的には成立しなくなった後にも、なお持続的な、概念的に抽象化されえない、身体的次元で成立する連帯性とも呼べるような親近性を相互に感じさせるのはなぜなのだろうか。言い換えれば、この食の共同性の経験が私たちに与える、他のものには還元しがたい価値はどこにあるのだろうか。
 これらの問いに次のように答えることができるだろう。私たちは、「同じ釜の飯を食う」ことによって、喜ばしい感覚の共時的共有、同じ物を分かち合う関係の平等性、共有された時間空間の中での相互承認・相互理解を学んでいる。しかも、それらは、社会的制度に依拠するのでもなく、法的義務として遂行されるのでもなく、外部的強制によるのでもなく、固定的な形式に拘束されることもなく、単なる伝統的習慣でもなく、個々の身体的主体の行為的参加を通じてのみ形成されうる共同性の経験において体得されているのだ。「同じ釜の飯を食う」ことによって、私たちは、食を享受できる感性的主体でありつつ、人と人の間に生きるものとしての人間になることを、感覚的・身体的次元から、つまり人間存在の構造契機をその原初的次元から学んでいるのである。