内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

住まうということ

2013-06-03 16:00:00 | 哲学

 一昨日6月1日土曜日午後、哲学祭という三週間を超える大規模な企画の中の一つのプログラムに発表者として参加した。主催者側からの要望は、日本における哲学の受容について話してほしいということだったので、自分の研究領域にも関わり、大学の講義でも取り上げたことがあるテーマ-〈sujet〉概念の日本への受容史について話した。
 前半は、その訳語としてまず「主観」が定着し、その後「主体」が登場するまでを、小林敏明氏の『〈主体〉のゆくえ』(講談社選書メチエ)に依拠しつつ粗描し、後半は、時枝誠記の言語過程説における〈主語〉と〈主体〉の定義の中に、sujet という言葉の直接の語源であるラテン語 subjectum、さらにはそれがそのラテン語訳であるところのギリシア語 ὑποκείμενον の意味-〈何かの下に置かれたもの〉〈何かに従属するもの〉〈偶発的なことにその発生する機会・場所を与えるもの〉-がかえって鮮明に見出されるという話をした。
 古代ギリシア語の一語の本来的な意味が、西洋哲学の長い歴史の中で見失われてゆき、それが見失われたまま、近代哲学の基本概念の一つとして sujet が日本に導入され、その受容史の中で、起源から遠く離れた意味がそれに付与され、乱用されていった一方で、江戸期の日本語文法研究の成果に主に依拠しながら構想された、東洋の一小国の一言語学者の理論の中に、その遠い起源の原初的な意味が再び鮮明に見出されるという、いわば逆説的な概念の冒険史とでも呼んだらよいであろうか、そのような話をフランス人聴衆の前でした。
 聴衆は、学生、一般市民、それぞれ半数ほどだったろうか。年金生活者らしい高齢者も少なくなかった。階段教室が7割ほど埋まっていたから、盛況だったと言っていいのだろうか。ただ、どこまで私の話が理解されたかはわからない。
 共有されない知は空しい。それは知とさえ呼べないのではないだろうか。それどころか、場合によっては、その孤立した知はその保有者である個人に対して破壊的にさえ働きかねない。

 先日、ホワイトヘッドの『観念の冒険』の仏訳 Aventures d'idées の巻頭に置かれた、訳者の一人によるホワイトヘッド哲学についての全般的解説的序論を読んでいて、その注の一つの中に、

"Le principal défaut de l'individu non relié est qu'il est autodestructeur."
「繋がっていない個人の主要な欠陥は、それが自己破壊的なことである」

という一文を読んで、それがちょうどその時の自分の精神状態に呼応してしまったのだろう、不意打ちを受けたように、直に心に突き刺さった。これだけ読めば、何も特別なことを言っているわけではないし、むしろ一般常識にかなっているとさえ言えよう。ここでいう「繋がっていない」あるいは「結び合わされていない」ということは、ホワイトヘッドにおいては、単に他者とのことだけでなく、社会、文明、自然 果ては宇宙にまで関わることだが、私がこの文を読んだときは、まさに自分の他者関係のことが言われていると読めてしまったわけである。
 それまでの数年間、ある人の博士論文の作成に協力してきた。それはほとんど二人三脚と言ってもいいほど緊密な協力関係だった。しかし、その博士論文は受理されなかった。その結果、協力関係もそこで消滅した。結局私は何をしたのかと、繰り返し自問せざるをえなかった。そんな時に上の一文を読んだ。
 もし、〈繋がる〉〈結び合わされる〉ということが、ある場所に〈住まうこと〉、つまりある場所に foyer を持ち、そこに〈居〉を構え、他者・社会・自然と繋がって生きることだとすれば、私は誰とも何とも繋がっていない。そのような人間は、誰かに協力しようとしても、自己破壊的だから、結果としてその相手をも破壊してしまいかねないのだ。自分でそうあろうなとどはつゆも思ってはいないのに、むしろその逆を心の中では切望しているのに、事実として、私は自他を破壊している。個人としての自分の欠陥がもたらす、かくも過酷な現実に今私は押し潰されようとしている。こうして言葉によって、できるだけ正確に事態を記述・分析しようとすることで、かろうじてそれに耐えている。