内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

食をめぐる哲学的考察(1)

2013-06-13 20:00:00 | 食について

 11日火曜日午後は学科会議だった。9月からの新学年に備えての次期学科長選挙。立候補者1名のため、承認投票。全会一致で承認。その次期学科長から立候補の際に指名されていた副学科長の一人として私の任命も全会一致で承認される。これで私が責任を持つコースが開設された2006年以来ずっと副学科長のポストについていることになり、今回の任期2年を終えると在任期間9年。もう今回を最後のお勤めにして、その後は自分の研究に全力を集中したい。フランスの大学の教育・研究環境はここ数年急速に悪化の一途を辿っており、教員にとっては研究時間の確保がますます難しくなっている。この問題については後日ゆっくりと何回かに渡って現場レポートを残しておきたいが、今は28日の研究発表の準備に集中したい。ここ数日は、遅くとも17日にはその要旨を提出しなくてはならないフランス語の発表原稿を優先して進めている。来週にはその内容についてこのブログでも記事にできるだろう。それまでの間、ある一人の人のために以前書いた「食をめぐる哲学的考察」という一連のエッセイがあり、どこにも発表するつもりはなかったし、あてもないので、せっかく始めたこのブログに、それらを記録として残しておきたい。今日はその第1回目。

 食べることなしに生きることができないという意味で、食は生命維持の必要条件である。しかしただ無選択に食べるだけでは、外部から生命維持にとって害さらには危険をもたらすものを取り込むことにもなりかねないから、それだけでは生きるための十分条件ではありえない。食べるものを生命体としての自己身体にとって適切な仕方で選択・摂取することができてはじめて、食行為は生命維持を私たちに可能にする。つまり、ただ食べるのではなく、よく食べることが生きるためには必要なのである。
 しかし、私たちは何でも好きなものを自由にいつでも食べることができる環境には生きていない。と言うよりも、それはそもそもできない相談である。自覚的か無自覚的かを問わず、私たちの食生活は種々の条件によって限定されており、けっしてそれらから完全に自由になることはできない。たとえ完全な自給自足生活を送り、そのことにすっかり満足しているという極端な場合を想定することができるとしても、そのような生活を送っている人が食べることができるものはその生活を送っている土地の諸条件によって限定されている。他方、食にいくらでも贅沢することができる環境にあり、世界中の珍味を自由に取り寄せて食べることができ、あるいはいつでも食べたいものがある土地に出かける自由を持っている大富豪という逆の極端の場合を想定してみても、そのような環境を享受している人が一生に食べられる量にもやはり限りがあり、いつも選択を強いられていることに変わりはない。
 私たちは何を食べているのであろうか。この問に対して、食材、調理法、献立、栄養素を挙げることによって答えることができると私たちは通常考えている。そしてそれらの答えを基に、複数の人たちが〈同じもの〉を食べているという結論を引き出すこともできると考えている。そこから、同じ食生活パターンを示している集団を構成してみせることもできる。しかし、その時、そこに見出されるのは、その集団の構成要素としての個体、同じ集団に属する以上他の個体と交換可能な、それぞれに固有な個性を持たない、そのかぎりで抽象的な個体であり、それは他と交換不可能な、かけがえのない一個の食する主体ではない。つまり、このような、いわば統計的アプローチによっては、食における自律的個人に到達することはできない。
 しかし、個々人がそれぞれ自覚を持って律する食生活なしには、個人レベルでの近代化はありえないとしても、そのような自律した主体は他の主体との食の共有を排除するわけではない。むしろ自律した主体間にしか、分かち合いは成立しないのではないであろうか。
 宗教儀礼の中には、同じ食べ物あるいは飲み物を分かち合うという秘儀を通じて神に帰依し、そのようにして神に帰依するかぎりにおいてその秘儀への参加者は共同体の成員としての認証を得るというタイプがある。この場合、神への帰依が同じ物を食べ飲むという行為を通じて表現されている、あるいは象徴化されているわけで、食するという行為それ自体がそれとして聖なる行為なのではなく、その行為が神への帰依によって聖化されていると言わなくてはならない。