内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

かくして諸社会は一つの〈世界〉になるか ― シモンドン研究を読む(33)

2016-10-05 05:13:33 | 哲学

 自然に「本来」備わる本性は、これを侵害してはならず、そのまま保存・継承されなければならないとする生命倫理における「保守的」立場に対して、シモンドンはどう反論するであろうか。ファゴ=ラルジョによるその仮想的反論を読んでみよう。まず、原文の当該箇所全文を引用する。その後に若干の説明語句を補った私訳を示す。

L’ingénierie génétique comme « connaissance opératoire » (i. e., comme technique) a établi sa validité ; elle a prouvé, pourrait-on dire avec un clin d’œil à l’étymologie, sa génialité : sa capacité « d’atteindre le réel selon les lois du réel lui-même » (MEOT, p. 345). Elle s’est imposée, elle fait désormais partie de notre univers. Réglementer les applications qui en sont faites ici ou là, c’est une affaire d’acceptabilité culturelle, extérieure à la technique. L’accepter comme technique, c’est s’ouvrir à la possibilité que sa normativité propre entre en conflit avec nos normes morales, par exemple en jetant un doute sur le caractère « sacré » et intouchable que certaines communautés humaines attribuent aux formes vivantes produites par l’évolution naturelle, ou en rendant intenable l’incohérence entre un principe de « non-brevetabilité » du matériel génétique humain, et la brevetabilité du matériel génétique des autres espèces. Simondon considère comme un bien que des normes disparates, issues d’histoires et de cultures particulières, soient élargies et « reliées » sous l’effet d’un choc avec le réel provoqué par le développement d’une technique. C’est ainsi que « les sociétés deviennent un Monde » (ILFI, p. 335)

遺伝子工学は、「作用的認識」(つまり技術)としてその妥当性を確立した。遺伝子工学は、その語源に一瞥を与えつつ言えば、その天分を、つまり「現実に現実自身の法則に従って到達する」能力を実証したのである。遺伝子工学は、不可欠なものとなった。以来私たちの宇宙の一部を成している。あちこちでなされている遺伝子工学の適用を法制化することは、文化的受容可能性の問題であり、技術にとっては外的な問題である。技術として遺伝子工学を受け入れること、それは、遺伝子工学固有の規範性と私たちの道徳的規範とが葛藤状態に入る可能性を受け入れることである。それは、例えば、自然の進化によって生み出された生きた形に対していくつかの人間の共同体が与えた「神聖」不可侵という性格に疑いの目を向けることによって、あるいは、ヒトの遺伝要素についての特許取得不可能性と他の種の遺伝要素についての特許取得可能性との間の不整合を維持し難いものとすることによってである。シモンドンは、個別の文化と歴史に由来する互いに乖離している規範が、ある技術の発展によって現実に対して引き起こされたショックの効果によって、拡張され、互いに「繋がれる」ことを一つの倫理的な前進と見なしている。かくして「諸社会は一つの〈世界〉になる」というわけである。

 しかし、ファゴ=ラルジョがこの直後に提示する次のような疑問を私たちが抱かずに済ませることは難しい。
 たとえ遺伝子工学が積極的な役割(つまり転導的な)を普遍的な存在生成過程の中で果たすとしても、生きた個体の生成過程において、とりわけ、生きている個体としての人間の生成過程において、場合によっては壊滅的な結果をもたらすこともありはしないのだろうか。
 私たち自身この問題について一日考えてみてから、ファゴ=ラルジョ論文の最終段落を読むことにしよう。