内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

相対的なるものの自覚としての倫理学 ― シモンドン研究を読む(34)

2016-10-06 05:36:27 | 哲学

 ファゴ=ラルジョ論文の最終段落を読んでいこう。
 遺伝子工学が、人間の生体に適用されるとき、その個体性を損なうことになりはしないか。このような疑問に対して、シモンドンの個体化論に従って答えるならば、以下のようになるだろう。
 そのような疑問は、個体とそれを現に構成している遺伝情報の全体とを混同し、個体性を絶対的なものとして固定化することから生まれて来る。ところが、実際には、個体性は相対的なものであり、実体的なものではない。遺伝情報は、個体にとって生成過程にあるものであり、一つの解決案としてよりも、むしろ一つの問題提起として捉えられるべきものである。「人工的に」補足的な遺伝子をヒトの胎芽に注入することは、その個体が抱える問題群をより豊かに、そして/あるいは、複雑化することであって、その個体がそれによって構成されている作用に取って代わることではけっしてない。
 この個体生成作用は、しかも、「存在の一契機」(« un moment d’être »)であって、存在の全体から完全に切り離され得ない。他方、技術的操作はもう一つの別の存在契機である。この二つの契機は互いに出会い、「調和する」(« consonnent »)することがある(遺伝子治療が成功したときがそれに相当する)。これは進化の一歩であり、「生成の融和的進路」(« voie résolutive du devenir », ILFI, p. 325)上の一階梯である。
 生体の「自然」に変更を加えることは恐れるに足りない。というのも、「人工的なものは励起された自然に属する」(« l’artificiel est du naturel suscité », MEOT, p. 346. 10月3日の記事参照)からである。言い換えれば、技術的人間がそれに値する者としてなす所作は、自然の中の潜在性の一つの表現を可能にするだけだからである。
 ここまでシモンドンに従って考えて来た上で、ファゴ=ラルジョは、読み手に向かって、あるいは自分自身に対してとも読める仕方で、次のように問いかける。
 一人の技術の思想家が、人間の技術力がもたらしうるすべての大胆な試みを統御する自然の能力に対してここまで(手放しに)信頼を寄せている。ILFI 第三部第二章第五節「苦悩」(« L’angoisse »)において、細分化のもたらす苦悩をあれほど深く分析した哲学者が、生成は断片化であるという仮説を退ける。(倫理的)責任に存在論的基礎を与えることに心を砕くモラリストが悪の問題を回避している。これらのことに私たちは苛立ちを覚えなくてはならないのであろうか。
 そして、ファゴ=ラルジョ論文は次の一文で締め括られている。

Il faut surtout comprendre que l’éthique de Simondon est aussi éloignée des principes absolus que des stratégies prudentielles : elle est « la conscience du relatif » (ILFI, p. 332).

何よりも理解しなくてはならないことは、シモンドンの倫理学は、絶対的諸原則からも慎重第一主義からも同じように隔たっているということである。シモンドンの倫理学は「相対的なるものの自覚」である。

 明日の記事では、上掲の引用に見られる « prudentiel » という形容詞の意味について若干の注釈を加え、それによってファゴ=ラルジョ論文の読解作業を終了する。その上で、シモンドンのテキストの読解へと立ち戻る新たな起点を明示する。