内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

形即information ― ジルベール・シモンドンを読む(134)

2016-10-23 16:54:24 | 哲学

 個体化とは、一般に、存在が或る形を取ることであるから、個体化そのものが「形を与えること」という意味での information である。形あるところ、必ず information あり、というわけである。あるいは、かつての京都学派風に衒った表現を使えば、「形即 information」とでもなろうか。
 この意味でだけ information という言葉が使われているのならば、今日一般に流通している意味とは違っているとしても、語源的にはむしろ正統的な用法だとも言え、それはそれでそんなにわかりにくい話ではないし、西田の言う形成作用との接点も出て来て、そこから存在論的な問題を展開することもできる。
 ところが、シモンドンは、すでに個体化された存在同士の間にしか information のやり取りはないとも言うのである。しかも、そのようなやり取りが可能になる存在のシステム(その中には当然複数の個体化された存在が統合されている)がまた一つの新しい個体化であるというのであるから、話がややこしくなる。個体化に複数の異なった次元があるとすれば、当然 information にもそれがあることになるからである。
 いずれにせよ、information と信号や信号の媒体とを混同してはならない。後者は前者がそれとして或る一定の次元で機能するための媒介に過ぎないからである。Information は、それがその中で役割を果たす個体化の諸条件の中でこそ理解されなくてはならない。
 しかし、その役割とは、正確なところ、何なのであろうか。例えば、« l’information est un certain aspect de l’individuation »(p. 329)とか言っただけでは、それこそ何の説明にもなっていない。その直後の数行も、それまでにすでに言われていたことの言い換えに過ぎず、読んでいて、正直、うんざりする。くどくどと似たり寄ったりの御託を延々と並べていないで、ちゃんとわかるようにすっきり説明しろ、と文句の一つも言いたくなる(論文の中では禁じられているこういう児戯に類する悪態をつくことが気軽にできるのが個人の資格で書いている私的ブログの効用の一つかも知れませんね。ただ、それを乱用すると、良識ある方々からお叱りを受けたり、有らぬ方から要らぬ攻撃を受けたり、果ては敢えなく炎上などという結末にもなってしまうのでしょうけれど)。
 それはさておき、このようにうんざりしかかっているところに、突然新しい展開が現れるから油断がならない。

Toute information est à la fois informante et informée ; elle doit être saisie dans cette transition active de l’être qui s'individue. Elle est ce par quoi l’être se déphase et devient (ibid.).

あらゆる information は、同時に形成するものであり且つ形成されるものである。あらゆる information は、自己個体化する存在の積極的な移行の中で捉えられなくてはならない。それは、それによって存在が自己多相化し、生成するものである。

 Information は、存在の自己生成を可能にしているプログラムのようなものと考えればいいのかも知れない。しかし、それは、予めそれ自体として実体として存在するわけではなく、唯名論的な記号の集合なのでもなく、存在の生成過程で実行されるかぎりにおいて動態的に存在する。しかも、存在の或る生成過程として実行された個体化のプログラムは、その完了した個体化のためだけに特化されたプログラムではなく、その他の個体化のプログラムの起点にもなりうる拡張可能性を有している。このような information の拡張可能性によって個体化形成の原理が存在のシステムの中で「転導」されていく。