吸いこまれそうな濃紺の空。カラカラに乾いた空気は喉だけでなく眼球から涙まで干上がらせていくようで、目がシカシカする。唯一の救いは、張り出した崖が容赦ない日射しを遮ってくれていることだった。おかげで発掘現場はとりあえず、人間が耐えられる温度でとどまっていた。
「グランドキャニオン」の名で知られる大渓谷を、数万年かけて削り出し、アメリカの中西部から太平洋へ流れ込むコロラド川。その支流を遡り、遥か昔に涸れた更にその支流跡の近くで、ネイティブアメリカンの祖先たちのものと見られる遺跡が、国定公園のレンジャーによって偶然発見されたのは、ほんの三年前のことだった。あまりにも辺鄙で厳しい場所のため、予備調査と予算獲得に三年の準備期間が費やされ、ようやく今年、カリフォルニア大の人類学研究室に発掘チームが結成され、本格的調査が始まったのだ。
キャンプの貯水タンクから詰め替えてきた水筒の生ぬるい水で、砂でざらつく喉を潤しながら、彼は、崖下に造られた住居跡や祭壇を、飽きず眺めやった。
彼──エドワード・ジョハンセンは、カリフォルニア大学の歴史人類学科二年に在籍し、将来は学者を目指していた。だから、自分が在籍中にこんなプロジェクトが行われると知ったときは、信じられない幸運に興奮して、喜び勇んで総指揮者のキンバリー教授に売り込みに行ったのだ。発掘メンバーに選ばれたときは天にも舞い上がる心地だった。同じ学科の友人たちは、マスターコースの先輩たちと違って、調査報告書に名前を載せてもらえるわけでもない、ただの作業要員じゃないか、と彼を止めたが、そんなことは問題ではなかった。もう発掘されつくした遺跡を柵や金網越しに眺めるのではなく、まだ誰も見ていない未知の遺跡を、この手で掘り出し、この手で触れ、その空気を嗅ぐことができるのだ。カフェのウェイターより安い日給でこき使われることなど、その経験と引き換えなら構いはしなかった。正直言って、奨学金とバイトで生活をまかなっている彼としては、前期試験後の二週間の秋季休暇が全部潰れるのは痛かったが。
この集落跡は何世代にもわたって使用されたらしく、石積みの建物の下にも石床の層が掘り出され、調査は予定を延長される方向に傾いているのが彼には悔しくてならなかった。彼が参加できるのは休暇中だけ。この先どんな発見があるかもしれないのに、それに立ち会うことはできないのだ。
今、遺跡にいるのは彼ひとりだった。最も暑い正午から二時間は食事と休憩の時間なので、皆、発電機で冷房を入れたテントで昼寝をしているところだろう。もちろん、彼も午後の作業に備えてひと眠りするつもりだったが、テントの中より、もっと気持ちよく眠れるところを知っていた。
崖には人工的に掘られた穴や、自然の窪みがあちこちに口を開けている。それらの多くは食料などの貯蔵庫として利用されていたらしいが、その理由はそこが涼しいからに他ならない。水分を多く含む地質なので、昼間はその水分が蒸発することによって気化熱が奪われる。だからこの場所は、日陰という条件以上に、過ごしやすくなっているのだ。
すでに調査が終わり、遺物が運び出されて空っぽとなっている穴にもぐりこみ、岩壁に体をくっつけて寝るというのが、彼の発見した最高の昼寝法だ。
今日も彼は、昼寝場所と決めた穴へ向かってぶらぶら歩いていった。
(ん?)
彼は足を止めた。目的の場所より更にずっと向こうの壁の、不自然に黒々とした影が、彼の目を引いた。
単なる岩の影とは思えなかった。その闇色は、光の届かない深い穴があることを感じさせた。それに、その形はこの辺りにあるような横に拡がったものではなく、縦に細長かった。
水によって岸壁が削られてできた穴や窪みは、削られた表面は滑らかで、入口が横に広く、奥行きは浅い。なのに、その穴は(穴だとすれば、だが)縦長で、ごつごつした輪郭だった。第一、昨日までそんな穴はなかったはずだ。
(夜のうちに…岩が崩れて、隠れていた洞窟が出てきたとか?)
確かめようと、彼はいつもの場所を通り過ぎ、崖に沿って歩いていった。それほど遠くなく見えたのに、穴にはなかなかたどり着かない。彼は張りついた前髪ごと、額を腕で汗をぬぐった。
(気のせいか…?全然近づいてこないように見える……)
彼は振り向いて、さっきまでいた遺跡からたいして来ていないように思え、首を捻った。そして前に向き直り、あっと叫びそうになった。穴は、すぐそこにあった。
不思議な気がしたが、崖が大きく弧を描いているせいで錯覚したのだろうと考えた。
人ひとりがやっと通れるくらいの割れ目が、唐突に口を開けていた。前に立つと涼しい風が吹き出して、彼の伸び気味の前髪を揺らした。入口は狭いが、中は相当深そうだった。覗き込んでも全く何も見えない。
(空気が流れているということは、どこかに繋がっているはずだ)
彼は、懐中電灯を持ってこなかったことを悔やんだ。遺跡と関係あるかどうかはなんとも言えないが、もしこの入口が昔は開いていたとしたら、先住民たちが利用していた可能性はある。その痕跡くらいないだろうかと、彼は壁に手をついて中へ足を踏み入れた。
風が真正面から吹きつけてくる。どこまで続いているのか、奥はもちろん足元も、手を触れていなければ壁の存在さえもあやふやになるほど、洞窟の内部は闇に閉ざされていた。
一向に暗さに慣れてこない目に、彼はこれ以上進むのをあきらめ、引き返そうとした。だが、動かした視線の先に、彼はぼうっと浮かぶ光を見つけた。
隙間から光が射しこんでいるのとは違う。すりガラス越しに弱い電球の光が漏れているような感じだった。
(向こうに枝道があるのか?)
相変わらず鼻先すら見えなかったが、その光に誘われて彼は壁から手を離した。
明かりの落ちた、夜のビルの非常灯のように、闇に滲む光の中に文字か記号らしきものがあるのに彼は気づいた。
それはアルファベットに似ているようでいて、アルファベットに当てはめようとすると全く違うようにも見え、読めそうで読めないもどかしさを彼に与えた。彼は「音」で読もうとするのをやめ、その形全体を頭に入れようとした。
(また……)
近づいているはずなのに、その光は少しも近づいてこない。先ほどこの洞窟を目指したときのように。
──……と出会え。
ふっ、と言葉が浮かぶ。彼は目を凝らした。読めたわけではない。何の連想だろうと思い、足元の危うさを忘れた。
──と出会え
その文字を音ではなく、翻訳された意味で理解したのだ、と彼が驚きに打たれた瞬間、止まらなかった最後の一歩は、着くべき地面を見出せなかった。
「!!」
声にならない叫びをあげ、まっさかさまに暗闇に落ちていく彼の目が、その文字が遠く小さくなっていくのを見届ける前に、彼の意識は闇に包まれた。