フルール・ダンテルディ

管理人の日常から萌えまで、風の吹くまま気の向くまま

『遠い伝言―message―』 5

2008年09月20日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 リベラの首都クィに着いたのは、ヴォガを出発して13日目だった。旅は順調だった。2日目の夜、エドの足のまめが潰れてペースが落ち、野宿する羽目になった以外は、野盗に襲われることもトラブルに遭うこともなく、殊に最終日は、宿泊した町を流れる川の下流にあるクィへは舟ならたった1マーレ(約2時間)だというので、彼らは久しぶりに昼間の苦行から解放されるべく舟に乗り込んだ。
 この川は、ディヴァン山脈の北方を源とし、ダーラン、ミュルディラを潤して南海へ注ぐダーラン川の支流で、リベラを東から西へ横切って、ミュルディラ内でダーラン川に合流する。同じ川の流域にあるこの3国は、川を利用して互いに移動や交易を行っているので、昔から強い友好関係にあるのだと、テスは説明した。
「だからこの3国内なら、国境はほぼ自由に通行できる。おれたちのような個人の旅行者なら通行証も必要ない。ローディアとの国境までは問題なくたどり着けるだろう。だが……」
 大陸一の大河も、この辺りではまだ川幅は狭く、流れも急で浅い。そのため舟は底の平らな、せいぜい5、6人しか乗れない小さなもので、しかも上流から下流への一方通行だった。目的地に着いたあとはいくつかの部分にばらされ、荷車に積まれて出発地に運ばれ、組み立てられるのだ。
 荷を運ぶ舟に便乗させてもらったふたりは、船べりに腰かけて、きらきら輝く川面の光と飛沫を浴びながら、互いにしか聞こえないように声をひそめて話した。
「ミュルディラ、ダーランとローディアはそれほど良好な関係ではない。対立して争うほどではないが。国境を越える主な街道には検問所が設けられ、国境警備隊も配置されている。通行証が要るのはこれらの国境と、ミュルディラとローディアの港の検問だけだ」
「……でも君は、ローディアへ行きたい…?」
 日よけに頭から被ったフードの下の、淡々としているように見せかけながら沈んだテスの顔を、エドは見つめた。彼の母親の故郷がどこにあるとも、彼が最終的にどこの国に行くとも、聞いたことはなかった。しかし今、初めて彼がローディアに言及したその口調から、ようやくわかった。
「君のお母さんの故郷は、ローディアにあるのか?」
 最初のうち、テスはまず行動して、そのあとにエドに説明するか、エドに質問されれば答えるという態度をとっていた。が、それは徐々に変わり、気がつくと、テスは「この世界についての知識を教え」ながら、実際には情報を与えておいてエドの意見や意思を確認するようになっていた。自分が何とかしてやらなければいけない、引っぱっていかなくてはいけない、はっきり言えばテスにとってお荷物でしかなかったエドが、ただ「教えてやる」だけの相手から「話し相手」くらいには格上げされたということだろうかと、エドは密かに嬉しく思っていた。嬉しいからこそ、テスの邪魔にはなるまいと思う。
「俺には通行証はないし、どこにいるのも同じだから、もし君がローディアに行くのなら、その手前で置いて行ってくれて構わない。国境まではまだずいぶんかかるんだろう?その間にもっと言葉も覚えるから」
 この世界へ来て2週間だというのに、すでにエドの会話能力は1年ぐらい勉強した程度にはなっていた。ほとんどの言葉の意味が理解でき、しかも微妙なニュアンスまでわかるというのはこの上ない強みだった。言語体系や発音が基本的にヨーロッパ言語と同じなことも幸いした。英語とは比較にならないほど多い助詞も、慣れてしまえばむしろわかりやすかった。
「……おれもお前と条件は同じだ。おれの通行証は、今のおれには使えない」
 彼は自嘲的に唇の端を引き上げた。
「なぜ?」
 テスは黙ったままだった。テスが何か隠していることを──たくさんの秘密を抱えているらしいことや、彼がただのこどもではないことを、この共に過ごした短い間にでも、エドはいやでも気づかざるを得なかった。
 自然の気を見るという能力だけのことではない。この世界に慣れて見えてくるにつれて、どれほどテスが「普通のこども」どころか「一般的なおとな」からもはずれているかわかってきた。
 テスは、エドの質問に答えてくれる。わからないことばかりの彼は、草木の名前や人々の仕草の意味から、この世界の技術水準、国際情勢まで、後先考えずに質問していたが、よくよく考えてみれば、たとえ自分の世界でも、中学生はもちろん、大のおとなでもよほど教養のある人でないと答えられないようなことを訊いてしまっていたことに気づいた。ましてメディアも発達していない、教育制度も十分に整っていないこの世界で、彼の質問のすべてに答えられる者はほとんどいないだろう。ほんの一握りの、それらの知識や情報を得られる立場の人間以外には。
 だが、テスはたいていの質問に答えてくれた。しかも、抽象的な言葉が通じにくいと、わかりやすく言い換えて説明してくれた。むしろ、市井の民が知っていそうなことが苦手で、法律や政治の分野の方が詳しかった。
 どう考えても、テスは支配階級(この世界ではまだ身分は世襲制で、支配階級として貴族が存在していた)の出身としか思えなかった。なのになぜ、こんなふうに幼い身でひとりきり、あてもなく旅しているのだろう。今、表立って戦争中の国はないと彼は言った。だとしたら、政変か政争に巻き込まれ、国を追われたのだろうか。
 エドにとってテスは、わからないことが多すぎるのに、気持ちの上でも現実の上でも大きすぎる存在になっていた。探りを入れれば肝心の部分はかわされてしまう。知りたくてたまらないのに、しつこく訊けば嫌われるのではないかと二の足を踏む。
 謎なのは、彼の素性だけではなかった。テスと話していると、年上の相手と話している錯覚に陥る。目の前のこの少年の姿こそが嘘だとでもいうように。時折見せる虚無的な自嘲の表情、思いつめた暗くきつい瞳。夜中にテスが眠れない様子で、抱えた膝に顔を埋めて、何十分もそうして過ごしていることがあるのを、エドは知っていた。彼にできることは、寝ているふりをすることしかなかったけれど。
 エド以外の人間には無邪気な表情で、必要とあらば甘えを滲ませて舌足らずに「お願い」してみせておきながら、エドに対しては、テスを外見通りのこどもとしか見えない大人ならば怒り出しそうな、ぞんざいで、エドを目下としか思っていない態度や有無を言わせない命令口調をとる。そんな彼の二面性に面食らい、途惑いながら強烈に興味を引かれていることをエドは自覚していた。時にその芝居が痛々しく、いとおしくて抱きしめたいと思い、時に大人の表情で翻弄し混乱させる彼を押さえつけてめちゃくちゃに抱きしめたいとも思う。その衝動はまだ切実なものではなく、普段は珍しいこと知らないことを見て学ぶのに夢中で、そんなことは忘れていたが。
 今ふたたび、彼の仲に強い疑問が湧き起こっていた。「君は誰なんだ」「どうして旅をしているんだ」「いったい何から逃げているんだ」「君は本当に……見ているままの『テス』なのか?」
 しかし結局、今度も彼は口に出せなかった。
「……ローディアへ……母の故郷へ行くというのは、決めていたことじゃない。あのとき…」
 エドを見上げたテスの目が、川の反射に金色に透けて、眩しげに細められる。
「お前に遇うまでは、迷っていた。目的地もなくふらついていることにも疲れたし、それ以外にあてなどなかったし……だが、ローディア国内に入るのは気が進まなかった。ローディア国境を前にしたら、やはり引き返してしまうかもしれないと思っていた。けれど、お前を見つけて…お前が聞いたこともない言葉を…異世界の言葉を話すのを聞いたとき、これは偶然ではない、おれは一族のもとに行かなくてはならないのだとわかった。おれはお前を、一族のところへ連れて行く役を負っているんだ」
「どうして?俺と君の母親の一族と、何の関係が……」
「おれの力は、母方から受け継いだと言ったろう。おれも、お前も、同じ力を持っている。そして、一族の伝説では、一族の祖先たちは」
 テスは伸び上がるようにしてエドに顔を近づけた。息が頬にかかる。
「この地上にはない場所、この世界ではないどこかから来たという──」

 クィは、首都というだけあって、今まで訪れた町や村とは段違いに賑やかで、立派だった。道行く人々の服装も、華やかで明るい色が多くなった。
 町の基本的な造り自体は規模が大きいだけで同じだった。水場のある(あった)広場を中心に大きな店や食堂が建ち、メインの広場から放射状に伸びる道沿いに宿屋やこまごまとした店が並び、次の広場につながる。次の広場には役所、あるいは神殿がある。こうして広場と広場、それらをつなぐ道とが網目状に広がり、一つの町を構成している。道も中心部はレンガか石で舗装されており、踏み固められただけの土の道を見慣れてしまったエドには、ずいぶんな都会に思えた。そうエドが感想を洩らすと、テスは肩をすくめ、
「七つ国の首都の中では、6番目の大きさでしかない。……だいたいお前の世界では百万人以上住んでいる都市も珍しくないのだろう?何を感心している?」
 テスは積極的にエドの世界のことを聞こうとはしなかったが、エドが話すときには熱心に耳を傾けた。歩きながらの気晴らしに、あるいはベッドに入ってどちらかが先に眠りに落ちるまでのひとときに、エドは思いつくまま、テスの隠し切れない好奇心に輝く瞳や、想像の翼を広げ遥か夢見るようなまなざしに喜びを感じながら、語り聞かせていた。
 飲み物を売っている屋台で、おなじみになったレモネードのようなお茶──ここでは蜜が入れてあって甘かった──を立ち飲みし、ついでに宿が集まっている地区を教えてもらい、彼らは今夜の宿を探した。庶民的な宿から敷居の高そうなホテルまでそろい、旅人を呼び込もうと値段と宣伝文句を書いた看板を道に出しているところも多い。それらを見比べつつテスは何軒かに入って部屋を見、普通の家を改装したらしい小さな宿に決めた。
 荷物を部屋に置いて「待ってろ」と出て行ったテスは、戻ってくるなり「出かけるぞ」と言い、自分の剣をベルトごとはずしてエドの腰に下げさせた。
「テス?」
「手持ちの現金が少なくなったから、換金する。お前は無愛想に突っ立って、せいぜい相手に睨みをきかせろ」
 例によって有無を言わせぬ調子で言うだけ言って、ついて来いとも言わずに踵を返して出て行くテスを追って、エドも宿を出た。
「大陸全土で共通の貨幣を使用していることは話したな?」
「ああ。各国で鋳造しているけど、金属の割合は厳密に決められているとか、各国が発行している補助貨幣はその国内でしか使用できないとか」
「そうだ。ただ、トレス金貨は重いしかさばる。だからそれと同様に全土で通用して、かつ少量で価値が高いものとして、多額の取引や、大金を運ばなければならないときなどに地金がよく使われる。多少の値動きはあるが、これが一番換金性が高い。その次は宝石だが、これはその石自体の価値や加工状態によって値段が大きく変わるから、素人が判断するのは難しい。信頼できる業者と取引することと、交渉が重要になる」
 いくらテスが早足でも、歩幅が違うので並んで歩くのに支障はないが、初めて帯びた剣の重みはどうにも慣れなかった。その上、大勢の人でにぎわう通りを歩くときは鞘の先が人に当たらないよう気をつけなくてはならず、エドは今更ながらに、テスが剣を腰に下げる習慣が身についていることを痛感した。
「ただ、おれだとこどもだと思って安く買い叩かれるのもしゃくだからな。お前がいれば多少は違うだろう」
「…それで、『睨みをきかせろ』?」
「頼むよ、お兄ちゃん」
 いたずらっぽい笑みをひらめかせたテスの、艶めいた瞳にエドの胸はズキンと疼いた。彼は頬の熱さを意識したが、幸いテスは店探しに気をとられていた。
 どうやら宿の人に教えてもらったらしい、飾り細工やアクセサリーを売る店でテスは更に情報を仕入れ、商店街から奥に折れ、問屋や小さな手工業者が集まる一角へとやって来た。倉庫の前には木箱の積まれた荷車が何台も連なり、開け放たれた窓や入口からは、作業台に向かう人の姿が垣間見え、店先で男たちが額をつきあわせて値段の交渉をしている。
 テスは入口の上に掲げられた看板を見て、その小さな戸を引き開けた。
 中は、意外と明るかった。通りに面した小さな窓には格子がはまっていて、そちらからはあまり光が入らないが、建物は中庭を囲む形に建てられ、中庭側は床から天井までの可動式の壁が開け放たれており、光が眩しすぎることなく室内に溢れている。
 この辺りの建物としては珍しい様式だった。今まで見てきたのは、農村のL字型か、市街の凹凸のない四角い建物ばかりだった。だが、奥の棟を見て納得した。何人もの男たちが、それぞれ小さな炉を前に金属の加工を行っている。あれでは風通しが良くないと、暑くて耐えられないだろう。
 どうやらここは宝飾品の工房のようだった。直接販売もしているらしく、入ってすぐに木枠のガラスケースの並んだカウンターがあった。
「何か入り用かね」
 カウンターの向こう側に、日に焼けた肌の痩せた中年の男が立っていた。
「ここはいい石を扱ってるって聞いたんだけど」
 テスは、あまり愛想がいいとはいえない男に、邪気のない笑顔で近づき、
「買ってほしい原石があるんだ。見てもらえないかな?」
 とベルトポーチから取り出したものを、カウンターの上に置いた。男は無言でそれを手に取り、ルーペでつくづくとひっくり返したり光に透かして見たりしていたが、「親方!」と奥に向かって怒鳴った。
「何だ?」
 工房にいた、やはり肌が赤銅色に焼けた押し出しのいい男は、刈り上げた額から流れ落ちる汗を拭きつつやって来た。
「お客さんが石を売りたいんだそうで」
「どれ」
 親方と呼ばれた男は、ルーペと石を受け取ると中庭に出てじっくりとそれを見ていた。
 エドからは、どんな石をテスが渡したのかよく見えなかった。それほど大きな石ではなかった。せいぜい小指の先くらいだろう。かろうじてわかったのは、色はついてなかったことだけだ。
 男はテスのところへ戻ってくると、カウンターの中から黒い布を取り出してその上に石を置いた。それは無色透明だった。
「悪くない。3千サン出そう」
「4千5百」
 エドの感覚では、1サンはほぼ1ドルの価値に相当した。彼は内心の驚きを顔に出さないように、テスに言われた通り腕を組んで突っ立っていた。
 高いカウンターにほとんど背伸びして両肘を載せて、テスは男となおもやり合っている。
「3千7百」
 男の出した数字に、初めてテスは、今までいることを忘れているんじゃないかとエド自身思い始めていた彼を振り返った。つられて男も彼に視線を向ける。エドはどう反応すべきかテスの意図がつかめず、しかめ面のままでいるしかなかった。
「5百は現金で、残りは金。換算はおじさんのところの買い価格で。それでどう?」
 テスは顔を戻すと言った。
「……いいだろう、ぼうず」
 受け取った現金はテスが、金の板はエドがそれぞれ持ち──というか、テスが、ぼーっとしているエドのベルトに皮袋をくくりつけ、彼らは店を出た。もとの表通りに戻ってやっと、エドは口を開いた。
「あの石、そんなに高いものなのか?」
「原石だからたいした値じゃない。加工されて、指輪だの剣の飾りだのになって注文主の手に渡るころには、1万サンにはなっているだろうがな」
「1万……!」
 宝石店どころか、デパートの宝飾品売場にすら足を踏み入れたことのないエドには、それが妥当な金額なのかどうかなどさっぱりだったが、少なくとも彼の金銭感覚からは、たかがアクセサリーに支払うには途方もない金額としか思えなかった。
 夕刻が迫り、街路には人が溢れ始めていた。メインストリートの露店は数を増やし、着飾った若い女性が目につく。
「ずいぶんにぎやかだね。やっぱり都会は違うな」
 エドは腰をかがめてテスに小声で話しかけた。
「今日は──今日と明日は特別だ。夏迎えの祭りがあるそうだ。今夜は前夜祭らしい」
「お祭りかあ。どおりで…」
 食べ物を売る店以外の商店は、まだ明るいにもかかわらずどんどん閉め始め、「営業中」の札を裏返しにする。いつの間にか彼らは、人の流れに逆らって歩いていた。
「向こうに何かあるのかな?」
「たぶん、前夜祭の会場があっちにあるんだろう。祭りは町の守護神が祀られている神殿で、神に感謝と繁栄の祈願を捧げる儀式で幕を開ける。それから神殿前の広場で劇や踊りが奉じられる。みな、それを見に行くんだろう」
「ふうん……」
 人々の行き先を目で追っているエドを見て、テスは、
「……興味があるなら、見に行ってこい。夕食代は渡してやるから」
「え?いや、いいよ。君も行くなら行くけど……」
「おれは興味ない」
 言いながらポケットを探り、5サン銀貨を差し出す。エドはその手を押しとどめた。
「じゃあ俺も行かない。それより君に訊きたいことがあるし」
 テスは苦笑いを浮かべ、銀貨をしまった。
「…わかった。では、早めに食事をして宿へ戻ろう」
 道の端を歩いていく彼の後ろを、並んで歩けなくなったエドがついて行く。と、警告する間もなく、よそ見をしていた男が視界に入らなかったらしいテスに、勢いよくぶつかった。
 よろめいたテスをとっさにエドは抱きとめた。ぶつかった男はちらっと振り返っただけで人混みにまぎれて行ってしまった。しかしエドは、それを咎めることも忘れていた。
 テスが胸の中に倒れこんできた瞬間、あっ、とエドは心の中で声を洩らした。体全体が大きく脈打ったような衝撃が走った。
 何に衝撃を受けたのか自分でもわからなかった。腕の中にテスの体がすっぽりとおさまっていた。彼の体を自分の体で覆い隠してしまえる体格差を、初めて知った。テスは少年で、彼の頭が彼の胸までしかないことは知っていた。知っていただけで、わかっていなかった。自分が彼の小さな頭も細い肩も、何もかも自分の腕と胸で抱き込んでしまえることを。
 驚きと途惑いが溢れてくる。そして、怖れと。
(おそれ……?)
 エドは不思議に思った。
(これは、俺の感情だろうか……?)
 胸を押し戻され、胸の中の温かさが逃げていく。
「……悪い」
 テスはうつむいたまま言い、背を向けた。歩き出す彼を追って、エドは彼の半歩前に出た。
「……こども扱いするな」
 庇われたと知って、彼は呟く。
「してないよ。単に俺の方がでかいから」
 ふたりは気まずい雰囲気のまま食事をして、宿に戻った。
 この世界に来て初めて「たらいに湯」ではない風呂に入ってさっぱりし、ベッドに寝転がってくつろいだおかげで、ぎくしゃくしていたふたりの間も、元に戻った。
 風を入れるため開け放した窓からは、遠い音楽や人々のざわめき、浮き立った町の空気が流れ込んでくる。
「……テス、訊いてもいいかな」
 訊きにくいこと──テスの素性や過去に触れる質問をするとき、エドはいつもテスの反応をうかがいながら、そう切り出した。
「何を」
 それに対するテスの応えもいつも同じだった。答えられることは答える。できないことには黙っているが、とりあえず言ってみろ、ということだった。このやりとりがこの半月の間に何度あったことだろう。
 エドは腹這いの上半身だけを起こし、テスの方へ顔を向けた。
「君はいつも金のことは心配するなって言うけど、どうしてるんだ?」
「……あの宝石のことか?」
 テスは頭の下に腕を組んで、目を閉じたまま答えた。
「お前に会う前は、あちこちの鉱山にいた。金や銀の鉱山は国家が管理しているが、宝石についてはその組合が採掘権を国から買い、人を雇って掘らせている。雇って、といっても日当を払うわけじゃない。採掘料を払わせて一定面積を掘らせ、出てきた宝石は組合と掘り当てた者とで分ける。その割合はその山によって違うがな。当然、たくさん、より価値のある石を掘ったらそれだけ儲かるから、一山当てようとする奴らが群がってくる。何も出なければ大損だ。どこを掘るかの場所は選べるが、見る目のない奴、運の悪い奴は土ばかり掘る羽目になる。前に出た場所の近くにしたり、占いに頼ったり、みな必死だ」
 彼は目を開け、体ごとエドへと向いた。
「自然は、すべてそれぞれ気を発している。もともとその気を読んで気象を予想したり水脈を探したりするのが、母の一族の生業だった。宝石探しもその応用だ。だから…」
 彼は不敵な笑みを浮かべた。
「お前が思っているより、おれは金持ちなんだ。だから遠慮したり、申し訳ながったりする必要はない。こんなこどもの世話になるのはお前のプライドが許さないかもしれないが……」
「俺のプライドなんて…」
 エドは寂しく笑った。
「そんなの、ないよ。今までずっと、人のお情けで生きてきたようなものだし……」
 親に捨てられた自分は、他人の世話になり続けて生きてきたのだという卑屈な思いは、今でも彼の中から消えずにある。
「……なぜ?」
 驚きを表に出して、テスは目を見開いた。
「俺の母は恋人ができて家を出て行った。父は俺を育てられなくて、養護施設に預けてそれっきり帰ってこなかった。そこに何年かいたあと、今の養父母に引き取られた。今だって、国から奨学金をもらっているから学校に通える。今までの人生のほとんどが、他人の援助のおかげだ。そのことに感謝こそすれ、ひがむ理由なんかない。でも……」
 彼はシーツに目を落とした。
「そんな善意やお金を使ってもらう価値が自分にあるのか、自信が持てないんだ。…そもそも、価値があろうがなかろうが、それらはみんな、俺に与えられたものじゃなくて、親から与えられないこどもだから与えられたに過ぎなくて、与えられた分は社会に返さなきゃいけないなんて、当たり前のことに卑屈になっている俺は、本当に……情けない人間だよ……」
 縛っていない生乾きの髪に手を突っ込んでうなだれるエドを、迷う瞳でテスは見つめた。体を起こしかけたのに、そのまま止まってしまう。
「……ごめん。ちゃんと自分の力で生きている君に、こんな甘ったれた愚痴を言うなんて、ますます情けないよな、俺。不愉快にさせて、ごめんよ」
 無理に笑ってみせるエドを、テスはしかめ面で睨みつけた。
「お前、おれがお前を助けたことも、自分にはそんな価値がないなんて思っているのか?」
「え……俺……」
 テスは起き上がって座り込んだ。
「おれは、お前の放つ気を見て、少なくとも心が歪んだり汚れたりした人間ではないと判断して声をかけた。こんな目に遭っても取り乱したり、いたずらに嘆いたり自棄になったりもせず、こんなこどものおれを信用して、対等に接した。だから力を貸す気になった。最初に言ったとおり、どうしようもない奴だったり、一緒にやっていけないと思ったら、途中で見捨てることになっても仕方ないと思ってた。けれどお前は、内心は知らないが、不安を口にしたり、弱音を吐くこともせず、懸命にここに慣れよう、学ぼうとしていた。今まで一緒にやってこられたのはお前のそういう努力があったからだと思う。だけど……たぶん、それだけじゃおれは、こんな……」
 テスの頬が染まる。
「こんなに長い間、一緒にいられなかっただろう。お前だから心を許して、いろんな話もしたり、一緒にいるのが楽だった。お前以外の人間だったら、旅をするのは苦痛になっていただろう。おれは、お前を、単なる旅の道連れだとは思っていない……!」
「テス……」
 彼は、ぷいと顔を背けた。
「少しは自信を持て。お前でなければ、おれはここにはいない」
 照れ隠しか、彼はエドの視線から逃げるように背を向けて、ベッドの中にもぐりこんでしまった。
「テス……」
「………」
「ありがとう。……俺は、君のそばにいてもいいのかな」
 エドは、幸せな笑顔を浮かべ、囁きかけた。テスは頑なに黙っていたが、返事は期待していなかったので、彼は窓を閉め、ランプを消した。
「おやすみ、テス」
 彼もベッドに入り、目を閉じた。しばらくして、聞き逃しそうな小さな声で、おやすみ、と返ってきた。