「いたっ!」
彼は自分の声で目が覚めた。
「……大袈裟な奴だな。そんなに力は入れていないぞ」
彼の目の前に、足があった。それを上にたどっていくと、雨でもないのに長いマントを体に巻きつけた少年が、不機嫌そうに彼を見下ろしていた。
「…あれ?君は……?」
体を起こそうとして、彼は体中に走った痛みに「いたたた…」と情けない声をあげて転がった。
「けがをしているのか?」
「わ、わからない……」
少年の声に戸惑いの色が混じった。
「出血はしていないと思ったんだが、骨をやられているのかもしれない。見せてみろ」
「大丈夫、たぶん……」
彼は自分であちこちひどく痛む部分を探ってみた。
「単なる打ち身だと思う。骨折までの痛みじゃない」
これならフクロにされたときに比べればたいしたことはない。だが、いったいいつこんなひどい打撲を負ったのだろう──そうだ、洞窟の穴に落ちたせいに違いない。すると、ここはどこだ?
うずくまっていた彼は目を上げ、あたりを見まわした。
そこは、何もかもが違っていた。渓谷の底では決して見ることのなかった地平線。首が痛くなるほど見上げなくても、目の高さに空がある──あいにく雲がひろがっていて、青空はところどころに覗いているだけだったが。そして、赤茶けて乾燥したアリゾナの大地とは正反対の、どこまでも続く草原。緑の中に黄色やピンク、青い色が混じるのは花だろう。
そんな見知らぬ風景よりも、彼の視線を吸い寄せ、強く心を惹きつけたのは───
本当に、まだ幼い少年だった。ジュニアハイスクール入学前と言ってもいいくらいだ。体のほとんどを覆い隠す厚地のマント越しでも、その成長期の手前らしい、優しい体の線と華奢さがわかる。けれど、唯一露わになっている顔の表情は、その見かけの年齢を裏切っていた。
初対面の相手への警戒の色は当然としても、観察するような冷静な視線や、唇を引き結んだ厳しい表情は、十かそこらのこどものものではない。
彼は、座り込んだまま、ぼうっと少年を見上げた。
なんて瞳だろう──と、魅入られたように少年の目を見つめた。漆黒の瞳は、美しくカットされた黒曜石のように冴え冴えと輝き、やや眦のきついアーモンド形の大きな目のほとんどを占め、鋭すぎる印象を和らげている。目に比べると鼻や口は小ぶりで、筋の通った細い鼻梁もピンク色の薄い唇も、こどもの可愛らしさよりは陶器の人形の整ったそれを感じさせる。──その繊細な花びらのような唇がほころべば違うのかもしれないが、少なくとも今は、むしろ冷徹さすら漂わせていた。
少年は絞りたての濃いミルクのような、白よりは黄みがかった肌で、そのわずかに癖のある黒い髪からも、東洋系ではないかと思われた。純粋な、ではないだろうが。
なんにせよ、その少年の容姿が整っていて、しかも非常に印象的なことは間違いなかった。何しろ彼にとって、人に見惚れて目を離せなくなるという経験など、生まれて初めてだったのだから。
「…君は、だれ?」
ぴくりと、少年の片眉が上がった。
「……人に名を訊くときは、自分から名乗るものだ」
どうやら気分を害させたと知って彼は慌てて言った。
「俺はエドワード・ジョハンセン。エドか、エディと呼んでくれ」
「……テス」
「えっ?」
小さな呟きを聞きとれず、エドは首を傾げた。
「テス、だ。ジョハンセンというのは姓か?」
少年は、硬い表情を崩さず言った。
「ああ、そうだけど……」
「ここでは、特別な場合を除いてむやみに姓を名乗る習慣はない。覚えておくといい」
ここ、ってどこだ?と訊こうとしてやっと彼は現実を理解した。ここは洞窟の底でも遺跡の谷でもない。いったい、どこにいるというんだ?
「……テス……ここは、どこなんだ?」
真っ青になった彼の顔色に気づいたのだろう、テスは顔を曇らせ、言いにくそうに唇を湿した。
「…リベラの東端の町、ヴォガまで12フォルトというところだ」
「……なんだって?」
ぽかんと訊き返したエドに、テスは大人びた吐息を洩らした。
「お前の生まれた国は?お前がいた場所はどこだ?」
「……アメリカ合衆国。さっきまで、アリゾナ州コロラド高原で…遺跡の発掘をしていたんだ……」
「…そんな国も、そんな名前の土地も存在しない。少なくともこの大陸には」
そう告げながら、すでに現実を把握したテスの表情は暗かった。
「ここは、お前のいた世界じゃない。たぶん…。信じられないかもしれないが」
「……なんだって……」
茫然としているエドを尻目に、テスはマントを脱いでエドに投げ渡した。
「お前には小さすぎるが、少しは寒さがしのげるだろう。行くぞ。ぐずぐずしていると日が暮れる」
「行くって…」
エドは、ぶるっと震えた。言われて初めて、コロラドとの気温差に気づいた。見れば、Tシャツから剥き出しの腕に鳥肌が立っている。
「ヴォガの町へ行く。今夜、ベッドの上で寝たければ、痛むだろうが我慢して歩け」
言うなり、彼は踵を返してすたすたと歩き始めた。
背中に大きな袋を背負った後ろ姿をぼんやり見送りかけて、エドは我に返った。テスの腰にぶら下がるのは、長い剣。幼い彼がそんなものを持ち歩いているということは、人間だか獣だかはわからないが、それだけの危険があるということだ。
立ち上がる動作だけで体中が悲鳴をあげたが、エドはそれをだましだまし、テスのあとを追った。