ヴォガに着いたときには、とっぷりと日が暮れていた。町、といっても、生まれ育ったサンフランシスコと、今住んでいるバークレーしか知らない都会育ちのエドにとっては、それこそ見渡す限りの牧草地か、小麦畑を突っ切る国道の途中にある小さな集落ほどにしか見えなかったが。それでも一応、外敵を防ぐためか境界を示しているのか、石を積み上げた壁に囲まれて、一個の独立した町の体裁を保っている。
町へ入る門は閉ざされていたが、門というほどのものではないそれは、引けば簡単に開いた。出入りを制限するためのものではなく、やはり単なる境界にしか過ぎないのだろう。
ぽつりぽつりと小さな家の中に灯った明かりしかない町は暗く、ひっそりとしていた。こんなところに泊まれるようなところがあるのかとエドは心配になったが、中心部らしいちょっとした広場までやってくると、人の姿もあり、飲食店や商店らしい建物が広場を囲み、ざわめきや明るい光が洩れていた。
エドは、中世の村に迷い込んだような気がした。どことなく違和感はあるが、本や映画、でなければゲームで見た中世ヨーロッパの町並みや風俗にいちばん近いように見えた。
「……いいか、お前は口をきくな。おれが何を言っても適当にうなずくだけにしろ」
「あ、ああ」
テスの緊張が伝わってきて、エドも、いよいよこれが、この異世界の文明とのファーストコンタクトなのだと思って心臓が高鳴った。緊張だけでなく、わくわく感が混じっているのは、まだ実感が本当には湧かないせいかもしれなかった。自分では、埋もれた文明を探し出し、明らかにしたいという志で考古学を学んでいるつもりだが、考古学者や探検家たちが活躍する映画や冒険小説に夢中だった子供時代を忘れたわけではない。
テスは広場から伸びる路地の、一軒の食堂らしい店に入っていった。狭い店の中に客は男が二人、黙って食事をしていた。
ドアに付けられたベルの音で、厨房から中年女性が出てきた。彼らを見て、愛想笑いを浮かべる。
「いらっしゃい。泊まりなら、空いてるよ」
「二人でいくら?」
テスは、さっきまでの尊大な、厳しい口調とはうって変わった、声の高さまでも違う話し方をし始めたので、エドは思わず彼の横顔をまじまじと見てしまった。表情もにっこりと、実に可愛らしい少年ぶりである。
「朝食つきで二人部屋30サン。体を洗うのに湯を使うなら、一人につき1サン上乗せだよ」
「うーん、部屋を見せてもらえる?」
「いいよ」
長いスカートをからげ、手燭を持って女が階段を上っていくあとに二人も続く。
木のベッドが二つ並び、その間に小さな木の台があるだけの、質素極まりない部屋だった。が、今のエドには、この部屋がこの世界ではどの程度のものなのか、安いのか高いのか妥当なのか、さっぱりわからなかった。
「うん、決めた。一晩借りるよ。お湯ももらえるかな?」
「ああ、いいよ。すぐ使うかい?」
テスはベルトにつけたポーチからコインを取り出した。
「うん。あと、食事も頼みたいんだけど、ここで食べてもいい?」
「構わないよ。定食でいいかい?だったらあと4サンおくれ」
女は受け取ったコインを数え、スカートのポケットにしまった。
「食事はすぐに持ってくるよ。お湯はちょっとかかるから、あとで沸いたら呼んでやるよ」
「食事は取りに行くよ。…兄ちゃんは休んでて」
テスは目顔でエドにそこにいろ、と合図して、女と一緒に出て行った。
女が置いていった手燭一つの薄暗い部屋に残され、エドは緊張を解いて硬いベッドに腰かけた。
「…兄ちゃん、って……兄弟というにはちょっと苦しいよな…」
東洋系のテスと、北欧系の金髪碧眼の彼とでは、人種的に違いすぎる気がするが、ここではそういうこともありなのか、それとも養子とか…などと埒もないことを考えていて、思い出した。下にいた男たちと案内してくれた女、それに広場で見た人々は南欧のラテン人種に近い顔立ち、体格だった。テスとは明らかに違う。ということは、テスは、少なくともこの近辺の出身ではないのだ。
「……エド、開けてくれ」
テスの声に、急いでドアを開ける。テスは食事を載せたトレーを両手に持って入ってきた。
彼は、一つを台の上、もう一つをベッドの上に置いた。腰に帯びたままだった剣をはずし、ベッドに立てかけてその横に座る。
「食べろよ」
彼は膝の上にトレーを載せ、スプーンを手にしてさっさと食べ始めた。膨らんでいないパンのような、スコーンのようなものと、肉と野菜の煮込み、ピクルスらしいもの、それに水という食事を、テスは驚くほど上品に食べていく。こんな簡単な食事の仕方に差が出るとは思えないのに、しかもセッティングされたテーブルと椅子についているわけでもない。なのに上品としか言いようがなかった。思わずエドが見惚れていると、テスが思いっきり眉をひそめて顔を上げた。
「何だ?食べられないのか?」
「い、いや、そうじゃなくて…」
エドは、暗くて自分が赤面しているのが見えないだろうことに感謝した。色素の薄い彼は、シャワーを浴びても興奮しても、すぐ首から上が赤くなってしまうのだ。
「ありがとう…こんな、俺みたいな得体の知れないやつに親切にしてくれて。たまたま俺を見つけたばっかりに、こんなやっかい事に巻き込んでしまって、すまないと思ってる」
「………」
テスは、スプーンを置いた。
「……偶然……ではない」
「え?」
「お前は、街道を行く人間からは全く見えないほど離れたところに倒れていた。おれは、お前を探して街道を外れた。…正確には、お前がいると知っていたわけではないが、何かがあると思ってあそこへ行った。そしてお前を見つけた」
「……何かって……どうして……」
「…おれには、お前の言葉はわからない。だから、お前の気を読んで、お前が伝えようとしている意味を理解している。動物や植物、この大地や大気、水、すべての自然の気を読む能力の応用だ。……わからないか?お前だって、その方法でおれの言葉を理解しているんだぞ」
エドは絶句した。
「そんなばかな…!君は英語をしゃべっているじゃないか!」
「頭の中で勝手に変換しているだけだ。おれの話す音だけに意識を集中してみろ。全くわからないはずだ。……だから、自分が知らない概念の言葉は理解できない。今、お前は『英語』と言ったが、おれはその言葉がわからない。たぶん、お前の母国の言語のことなのだろうと想像はつくが。例えば…距離や時間、物の単位を表す言葉は翻訳できない。おれが、このヴォガまでの距離を12フォルトと言ったとき、わからなかっただろう?」
「………」
テスの言うとおり、彼は英語を話してはいなかった。頭の中で流れる意味と、耳がとらえている音とが二重に聞こえる。
「大気が、大きくねじれるのが視えた。これまで見たこともない大きな力……巨大な嵐や、激しい雷雨のときでさえ比べものにならないくらいの力が、動くのが視えた。それはほんの2分の1フォルも経たずに唐突に消えたが、そのあとに何かが出現しているのを感じた。まるで、小さなつむじ風のような気が地平に立ち上っていて……おれは確かめずにいられなかった」
彼は深いため息をついた。
「……それに…よりによって、おれから視える範囲にお前が現れたことを、偶然で片づけることはできないだろうな……」
「……テス?」
テスは、エドより十歳も年上のような、苦い笑みを浮かべた。が、彼の視線に気づくと、すぐに表情を消した。
「そのうちわかってくるだろうが…おれたちみたいな力を持っているものはほとんどいない。つまり、おれはお前の言っていることを理解できるが、他の人々には理解できない。だから、当分言葉を覚えるまでは、人前でしゃべるな」
「覚える……」
「おれが教える。他にも、我々の習慣や一般的な知識。おれもまだ世間知らずのうちに入るが、お前に教える程度なら十分だろう」
「……それって…しばらく俺と一緒にいてくれるってこと…?」
エドは、信じられない気持ちで訊ねた。こんなお荷物、テスは放り出したってかまいはしないどころか、そうするのが当然なのに。
「仕方ないだろう。ここでおれが見捨てれば、一週間以内にお前は盗賊に殺されるか、餓死か病死、でなければ牢屋に入れられているだろう。それではさすがに寝覚めが悪いからな」
そっけなく言い捨てて、彼はまたスプーンを口に運び始めた。
意識せず、エドの口に微笑みがのぼった。どうやら、自分はとても運がいいらしい──こんなとんでもない目にあって、元の世界に戻れるかどうかもわからない状態を、運が悪いの一言で片づけることなどできそうにないが──と思って。関わりあいを避けて無視されたり、警察だか何だかに突き出されたり、そうでなくても言葉も分からない人々の中に放り込まれたりすることなく、テスが見つけてくれて、テスに出会うことができたなんて、百万ドルの宝くじに当たるより運が良かった。
テスが彼をだましたり、密告したりするつもりかもしれないとは、これっぽっちも思わなかった。そのつもりならとうにそうしているだろうとか、命以外に取れるものなんかないだとか、そういう論理的な帰結ではない。テスの冷たくさえ思える物言いや、厳しい態度は、むしろ無意味なごまかしをせず、現状を直視させ、十分な判断の材料を与える、相手を対等に扱い尊重する彼の姿勢を表している。
エドにはそれが感じ取れた。彼はこどもだが、その中身は幼くはない。知識も、人格も。
(きっと、俺なんかより苦労して、いろんな経験をしてきたんだろうなあ……)
そう思うと、なんだか心が痛かった。宿の女性と接したときの「年相応」の演技も、生きていくための知恵なのだろう。生きることに困難を抱えている者ほど、いろいろな役を演じなければならない。無邪気なふり、傷ついていないふり、知らないふり、楽しそうなふり……。エドは、そのことを知っていた。彼もいつだってそうしてきたからだ。
親の保護を受けられなくなったこどもが収容される施設で、彼は「適度に」職員を困らせ、ほどほどにいい子で、引き取られた先の家庭でも「普通に」養父母とぶつかりあい、それなりにいい親子となったあと、大学入学と同時に独立した。
一人で生活するようになったからといって、何もかも思い通りにできるわけでもないし、必要とあらば「相手の望む姿」を演じることもあるけれど、少しずつ、自分が素のままでいられる場所を作りつつある。
エドは思い出してしまった。あの場所に帰れるのだろうか?学びたいことを学ばせてくれる大学、狭くて古いが、彼の「城」であるアパート、いろいろな人がやってくるバイト先のカフェ、青い空と赤い土の発掘現場……。
帰れないかもしれない。一生、ここで暮らすことになるかもしれない。何の手がかりもない。偶然ここへ来たのなら、それともどこかに帰る道があるのなら、偶然を待つか、道を探さなければならない。それまでここで生きていかねばならない。ここで生きていく方法を学んで、一人で生活できるようにならなくては。
「テス」
「…なんだ?」
不機嫌そうに──そういえば、目が覚めて、初めて彼を見たときもこんな表情だった。もしかしたら、笑うと損だとでも思っているのだろうか?普段愛想笑いしている分──テスは顔を上げた。
「俺、君にものすごく迷惑をかけてしまってる。ありがとうなんて言葉じゃ済まないくらい。どうしたら君の役に立てるのかわからないけれど、俺に出来ることがあれば何でもする。早く言葉を覚えて、習慣も覚えて、一人でやっていけるように努力する。それで、君に恩返しをするよ」
「……」
テスは、やや呆れたらしい沈黙を返した。
「……ずいぶんと、前向きだな」
「悲観してたって、やらなければいけないのは同じだろう?」
「まあな。おれとしてもその方が助かる。少なくとも、途中で頭に来てどこかに捨ててくる手間は省けるからな」
口の端だけで意地悪げな笑みを彼は作った。そうすると彼の美貌はひどく大人びたものになり、なぜだかエドは直視できず、熱くなった頬をこすってごまかした。
「君に手間をかけさせないようがんばるよ。これからよろしく頼むよ。…こういうとき、どうするものなのかな?」
エドの差し出した手を、テスはとまどったように見やった。
「握手の習慣はない?お願いしますって頼むとき、どうする?」
「……いや、たぶん、ほとんどの国でそうする。ただ、おれは…」
テスの語尾は口の中に消えた。彼は食事のトレーを膝から下ろすと、ためらいがちに手を出した。
自分よりひと回り小さな手を、エドは力を加減して握った。少し湿った熱い手のひら。
「……っ!」
不意に、テスは手を引いた。
「テス?」
彼は取り戻した手を胸に当てて握りしめ、驚愕を顔に貼りつけてエドを凝視した。
「……テス?」
何か自分は禁忌にでも触れたのだろうかと、エドは不安になる。テスは気まずげに目をそらし、
「……すまない。人に触られるのは苦手なんだ」
「あ、ああ……そう、か……」
それ以上取り繕うことも思いつかないように黙って食事を続けるテスに、エドも冷めかけた料理に手をつけた。テスの言い訳がごまかしでしかないことはわかっていた。だが、いったい何が彼をあんなに驚かせたのだろうか。いきなり手を?んだわけでもない。手が触れて、自分は熱さを感じただけだったが、テスは他のことを感じたとでもいうのだろうか?静電気とか?
エドは自分で考えたことに苦笑した。そんなことより、考えるならこれからのことだ。生活のあらゆることを初めは彼に頼らなくてはならないとしても、どうしたって彼はまだ幼いこどもだ。本当は、自分が彼を助け、守らなければならない立場なのだ。自分に、何ができるだろう。テスのために、生きていくために。彼にはまだ、何もわからなかった。
町へ入る門は閉ざされていたが、門というほどのものではないそれは、引けば簡単に開いた。出入りを制限するためのものではなく、やはり単なる境界にしか過ぎないのだろう。
ぽつりぽつりと小さな家の中に灯った明かりしかない町は暗く、ひっそりとしていた。こんなところに泊まれるようなところがあるのかとエドは心配になったが、中心部らしいちょっとした広場までやってくると、人の姿もあり、飲食店や商店らしい建物が広場を囲み、ざわめきや明るい光が洩れていた。
エドは、中世の村に迷い込んだような気がした。どことなく違和感はあるが、本や映画、でなければゲームで見た中世ヨーロッパの町並みや風俗にいちばん近いように見えた。
「……いいか、お前は口をきくな。おれが何を言っても適当にうなずくだけにしろ」
「あ、ああ」
テスの緊張が伝わってきて、エドも、いよいよこれが、この異世界の文明とのファーストコンタクトなのだと思って心臓が高鳴った。緊張だけでなく、わくわく感が混じっているのは、まだ実感が本当には湧かないせいかもしれなかった。自分では、埋もれた文明を探し出し、明らかにしたいという志で考古学を学んでいるつもりだが、考古学者や探検家たちが活躍する映画や冒険小説に夢中だった子供時代を忘れたわけではない。
テスは広場から伸びる路地の、一軒の食堂らしい店に入っていった。狭い店の中に客は男が二人、黙って食事をしていた。
ドアに付けられたベルの音で、厨房から中年女性が出てきた。彼らを見て、愛想笑いを浮かべる。
「いらっしゃい。泊まりなら、空いてるよ」
「二人でいくら?」
テスは、さっきまでの尊大な、厳しい口調とはうって変わった、声の高さまでも違う話し方をし始めたので、エドは思わず彼の横顔をまじまじと見てしまった。表情もにっこりと、実に可愛らしい少年ぶりである。
「朝食つきで二人部屋30サン。体を洗うのに湯を使うなら、一人につき1サン上乗せだよ」
「うーん、部屋を見せてもらえる?」
「いいよ」
長いスカートをからげ、手燭を持って女が階段を上っていくあとに二人も続く。
木のベッドが二つ並び、その間に小さな木の台があるだけの、質素極まりない部屋だった。が、今のエドには、この部屋がこの世界ではどの程度のものなのか、安いのか高いのか妥当なのか、さっぱりわからなかった。
「うん、決めた。一晩借りるよ。お湯ももらえるかな?」
「ああ、いいよ。すぐ使うかい?」
テスはベルトにつけたポーチからコインを取り出した。
「うん。あと、食事も頼みたいんだけど、ここで食べてもいい?」
「構わないよ。定食でいいかい?だったらあと4サンおくれ」
女は受け取ったコインを数え、スカートのポケットにしまった。
「食事はすぐに持ってくるよ。お湯はちょっとかかるから、あとで沸いたら呼んでやるよ」
「食事は取りに行くよ。…兄ちゃんは休んでて」
テスは目顔でエドにそこにいろ、と合図して、女と一緒に出て行った。
女が置いていった手燭一つの薄暗い部屋に残され、エドは緊張を解いて硬いベッドに腰かけた。
「…兄ちゃん、って……兄弟というにはちょっと苦しいよな…」
東洋系のテスと、北欧系の金髪碧眼の彼とでは、人種的に違いすぎる気がするが、ここではそういうこともありなのか、それとも養子とか…などと埒もないことを考えていて、思い出した。下にいた男たちと案内してくれた女、それに広場で見た人々は南欧のラテン人種に近い顔立ち、体格だった。テスとは明らかに違う。ということは、テスは、少なくともこの近辺の出身ではないのだ。
「……エド、開けてくれ」
テスの声に、急いでドアを開ける。テスは食事を載せたトレーを両手に持って入ってきた。
彼は、一つを台の上、もう一つをベッドの上に置いた。腰に帯びたままだった剣をはずし、ベッドに立てかけてその横に座る。
「食べろよ」
彼は膝の上にトレーを載せ、スプーンを手にしてさっさと食べ始めた。膨らんでいないパンのような、スコーンのようなものと、肉と野菜の煮込み、ピクルスらしいもの、それに水という食事を、テスは驚くほど上品に食べていく。こんな簡単な食事の仕方に差が出るとは思えないのに、しかもセッティングされたテーブルと椅子についているわけでもない。なのに上品としか言いようがなかった。思わずエドが見惚れていると、テスが思いっきり眉をひそめて顔を上げた。
「何だ?食べられないのか?」
「い、いや、そうじゃなくて…」
エドは、暗くて自分が赤面しているのが見えないだろうことに感謝した。色素の薄い彼は、シャワーを浴びても興奮しても、すぐ首から上が赤くなってしまうのだ。
「ありがとう…こんな、俺みたいな得体の知れないやつに親切にしてくれて。たまたま俺を見つけたばっかりに、こんなやっかい事に巻き込んでしまって、すまないと思ってる」
「………」
テスは、スプーンを置いた。
「……偶然……ではない」
「え?」
「お前は、街道を行く人間からは全く見えないほど離れたところに倒れていた。おれは、お前を探して街道を外れた。…正確には、お前がいると知っていたわけではないが、何かがあると思ってあそこへ行った。そしてお前を見つけた」
「……何かって……どうして……」
「…おれには、お前の言葉はわからない。だから、お前の気を読んで、お前が伝えようとしている意味を理解している。動物や植物、この大地や大気、水、すべての自然の気を読む能力の応用だ。……わからないか?お前だって、その方法でおれの言葉を理解しているんだぞ」
エドは絶句した。
「そんなばかな…!君は英語をしゃべっているじゃないか!」
「頭の中で勝手に変換しているだけだ。おれの話す音だけに意識を集中してみろ。全くわからないはずだ。……だから、自分が知らない概念の言葉は理解できない。今、お前は『英語』と言ったが、おれはその言葉がわからない。たぶん、お前の母国の言語のことなのだろうと想像はつくが。例えば…距離や時間、物の単位を表す言葉は翻訳できない。おれが、このヴォガまでの距離を12フォルトと言ったとき、わからなかっただろう?」
「………」
テスの言うとおり、彼は英語を話してはいなかった。頭の中で流れる意味と、耳がとらえている音とが二重に聞こえる。
「大気が、大きくねじれるのが視えた。これまで見たこともない大きな力……巨大な嵐や、激しい雷雨のときでさえ比べものにならないくらいの力が、動くのが視えた。それはほんの2分の1フォルも経たずに唐突に消えたが、そのあとに何かが出現しているのを感じた。まるで、小さなつむじ風のような気が地平に立ち上っていて……おれは確かめずにいられなかった」
彼は深いため息をついた。
「……それに…よりによって、おれから視える範囲にお前が現れたことを、偶然で片づけることはできないだろうな……」
「……テス?」
テスは、エドより十歳も年上のような、苦い笑みを浮かべた。が、彼の視線に気づくと、すぐに表情を消した。
「そのうちわかってくるだろうが…おれたちみたいな力を持っているものはほとんどいない。つまり、おれはお前の言っていることを理解できるが、他の人々には理解できない。だから、当分言葉を覚えるまでは、人前でしゃべるな」
「覚える……」
「おれが教える。他にも、我々の習慣や一般的な知識。おれもまだ世間知らずのうちに入るが、お前に教える程度なら十分だろう」
「……それって…しばらく俺と一緒にいてくれるってこと…?」
エドは、信じられない気持ちで訊ねた。こんなお荷物、テスは放り出したってかまいはしないどころか、そうするのが当然なのに。
「仕方ないだろう。ここでおれが見捨てれば、一週間以内にお前は盗賊に殺されるか、餓死か病死、でなければ牢屋に入れられているだろう。それではさすがに寝覚めが悪いからな」
そっけなく言い捨てて、彼はまたスプーンを口に運び始めた。
意識せず、エドの口に微笑みがのぼった。どうやら、自分はとても運がいいらしい──こんなとんでもない目にあって、元の世界に戻れるかどうかもわからない状態を、運が悪いの一言で片づけることなどできそうにないが──と思って。関わりあいを避けて無視されたり、警察だか何だかに突き出されたり、そうでなくても言葉も分からない人々の中に放り込まれたりすることなく、テスが見つけてくれて、テスに出会うことができたなんて、百万ドルの宝くじに当たるより運が良かった。
テスが彼をだましたり、密告したりするつもりかもしれないとは、これっぽっちも思わなかった。そのつもりならとうにそうしているだろうとか、命以外に取れるものなんかないだとか、そういう論理的な帰結ではない。テスの冷たくさえ思える物言いや、厳しい態度は、むしろ無意味なごまかしをせず、現状を直視させ、十分な判断の材料を与える、相手を対等に扱い尊重する彼の姿勢を表している。
エドにはそれが感じ取れた。彼はこどもだが、その中身は幼くはない。知識も、人格も。
(きっと、俺なんかより苦労して、いろんな経験をしてきたんだろうなあ……)
そう思うと、なんだか心が痛かった。宿の女性と接したときの「年相応」の演技も、生きていくための知恵なのだろう。生きることに困難を抱えている者ほど、いろいろな役を演じなければならない。無邪気なふり、傷ついていないふり、知らないふり、楽しそうなふり……。エドは、そのことを知っていた。彼もいつだってそうしてきたからだ。
親の保護を受けられなくなったこどもが収容される施設で、彼は「適度に」職員を困らせ、ほどほどにいい子で、引き取られた先の家庭でも「普通に」養父母とぶつかりあい、それなりにいい親子となったあと、大学入学と同時に独立した。
一人で生活するようになったからといって、何もかも思い通りにできるわけでもないし、必要とあらば「相手の望む姿」を演じることもあるけれど、少しずつ、自分が素のままでいられる場所を作りつつある。
エドは思い出してしまった。あの場所に帰れるのだろうか?学びたいことを学ばせてくれる大学、狭くて古いが、彼の「城」であるアパート、いろいろな人がやってくるバイト先のカフェ、青い空と赤い土の発掘現場……。
帰れないかもしれない。一生、ここで暮らすことになるかもしれない。何の手がかりもない。偶然ここへ来たのなら、それともどこかに帰る道があるのなら、偶然を待つか、道を探さなければならない。それまでここで生きていかねばならない。ここで生きていく方法を学んで、一人で生活できるようにならなくては。
「テス」
「…なんだ?」
不機嫌そうに──そういえば、目が覚めて、初めて彼を見たときもこんな表情だった。もしかしたら、笑うと損だとでも思っているのだろうか?普段愛想笑いしている分──テスは顔を上げた。
「俺、君にものすごく迷惑をかけてしまってる。ありがとうなんて言葉じゃ済まないくらい。どうしたら君の役に立てるのかわからないけれど、俺に出来ることがあれば何でもする。早く言葉を覚えて、習慣も覚えて、一人でやっていけるように努力する。それで、君に恩返しをするよ」
「……」
テスは、やや呆れたらしい沈黙を返した。
「……ずいぶんと、前向きだな」
「悲観してたって、やらなければいけないのは同じだろう?」
「まあな。おれとしてもその方が助かる。少なくとも、途中で頭に来てどこかに捨ててくる手間は省けるからな」
口の端だけで意地悪げな笑みを彼は作った。そうすると彼の美貌はひどく大人びたものになり、なぜだかエドは直視できず、熱くなった頬をこすってごまかした。
「君に手間をかけさせないようがんばるよ。これからよろしく頼むよ。…こういうとき、どうするものなのかな?」
エドの差し出した手を、テスはとまどったように見やった。
「握手の習慣はない?お願いしますって頼むとき、どうする?」
「……いや、たぶん、ほとんどの国でそうする。ただ、おれは…」
テスの語尾は口の中に消えた。彼は食事のトレーを膝から下ろすと、ためらいがちに手を出した。
自分よりひと回り小さな手を、エドは力を加減して握った。少し湿った熱い手のひら。
「……っ!」
不意に、テスは手を引いた。
「テス?」
彼は取り戻した手を胸に当てて握りしめ、驚愕を顔に貼りつけてエドを凝視した。
「……テス?」
何か自分は禁忌にでも触れたのだろうかと、エドは不安になる。テスは気まずげに目をそらし、
「……すまない。人に触られるのは苦手なんだ」
「あ、ああ……そう、か……」
それ以上取り繕うことも思いつかないように黙って食事を続けるテスに、エドも冷めかけた料理に手をつけた。テスの言い訳がごまかしでしかないことはわかっていた。だが、いったい何が彼をあんなに驚かせたのだろうか。いきなり手を?んだわけでもない。手が触れて、自分は熱さを感じただけだったが、テスは他のことを感じたとでもいうのだろうか?静電気とか?
エドは自分で考えたことに苦笑した。そんなことより、考えるならこれからのことだ。生活のあらゆることを初めは彼に頼らなくてはならないとしても、どうしたって彼はまだ幼いこどもだ。本当は、自分が彼を助け、守らなければならない立場なのだ。自分に、何ができるだろう。テスのために、生きていくために。彼にはまだ、何もわからなかった。