誰か助けを呼ぶべきだと頭の隅では考えているのに、体が動かない。
血溜まりの中で、ヘルムートの体が痙攣している。痛いのだろう。苦しいのだろう。かすかに胸が上下するたびに、ごぼごぼと血を吐く音がする。
これが、死ぬということなんだ。ジュニアもこんなふうに切り刻まれ、たくさん血を流して死んだんだ。
母も、死んだ。いつまでたっても帰ってこない母の代わりに、突然母の仕事先の店主だという男と警官たちがやって来て、警察署に連れて行かれた。大勢の大人たちが行き来するフロアの隅に座らされ、頭の上で会話が交わされるのを聞いていた。その内容から、母が仕事中に倒れ、死んだことを知った。
保護施設で何日か過ごす間に母が亡くなったことを説明されたが、母の遺体と対面することも、埋葬に立ち会うこともなかったため、死を実感しないまま、アーミテージハウスに引き取られることになった。
脳内出血で倒れた母は、わずかな間に意識を失ってそれほど苦しまなかっただろうが、働きづめに働いて、いつも妊娠した自分を捨てた父を憎み、その血を引いた、足手まといでしかない僕を疎ましく思いながら貧困の中で死んでいった。
みんなこうして、死んでしまう。自分の周りから、みんないなくなってしまう。自分もいつか、こんなふうに死ぬんだ。……だけど…どうして、今じゃないんだろう。どうして僕が先じゃないんだろう。僕が……僕こそが、いなくてもいい存在なのに。いなくなるべきなのに。
僕のせいでジュニアは殺された。目障りな僕のせいでヘルムートは自分自身を殺した。母だって、僕がいなければもっと違う人生を生きられたはずだ。アーミテージハウスも、僕がいたからこそ取り壊され、僕がいたことも、僕の存在ごと抹消するように、跡形もなく消えてしまった。
僕がいなければ…そんなことにはならなかったのに。僕の方がいなくなるべきなのに、どうして僕はまだ、ここにいるんだろう?
……僕はもう、見たくない。僕の前から消えていく大切なものを。自分の罪を。自分が生まれてくるべきではなかったという事実を、もう見たくない。
僕は……消えてしまいたい……!
「あなたは、鎖である僕を見つけてあの場に現れた。あなたには、ヘルムートではなく僕が鎖だとわかっていたが、ヘルムートに接触して彼を消滅させることにした。なぜなら僕の精神が壊れかかっていたことに気づいたからだ。だから一刻も早く死にかけている彼を僕の前から取り除くべきだと判断した。そうだろう?」
“………”
忍は意識せず、赤龍の背を手で撫でていた。赤龍は半眼でその感触に身を任せている。
「あなたはその時には僕に接触するつもりはなかった。そんな精神状態の僕に接触したら望ましくない結果になることは目に見えていたからだ。あなたはヘルムートの肉体を消滅させたあと、そのまま一旦立ち去ろうとした。なのに、僕はそれを引き止めた」
手を止め、忍は伏せていた目を赤龍へと向けた。赤龍もうっそりと目蓋を上げ、忍を見つめ返した。
「僕はあなたがヘルムートを消滅させたのを見て、あなたが僕の望みを叶えてくれると思った。あなたなら…神様でないことはわかっている、悪魔でも怪物でも何でもいい、あなたなら僕をこの世界から消してくれる、そう思ったんだ……」
目の前にいるこれは……何?赤い……ドラゴン…?
ベリンダ先生が言っていた。悪魔はいろいろな姿で現れる。ドラゴンは、悪魔が空を飛ぶときに変身した姿だと。そしたらこれは……赤い悪魔なんだろうか。それとも、ただの怪物なんだろうか…。
だけど、何だっていい。こいつは触っただけでヘルムートを消してしまった。次は…僕の番だ。僕も、やっと消えることができる。何もかも、終わりになるんだ…。
赤いドラゴンは、翼を広げた。消えるときは、どんな感じだろう。痛いのかな。…でももう、ヘルムートは苦しくないよね……もう楽になれたんだよね……。
「……待って……!?」
叫んだつもりだったけれど、自分の耳にも届かないような、かすれた声しか出なかった。けれども、ドラゴンは飛び立とうとするのをやめ、僕をじっと見つめた。
「……お願い……僕も…僕も消してください……」
僕は、ずるずると這っていって、必死に手を差しのべた。なぜだか、ドラゴンは逃げるように後じさった。
「……僕に、触れて……お願い……」
はるか頭上にあったドラゴンの頭が、長い首をくねらせて下りてきた。口元からは大きな牙がはみ出し、金色の目が爛々と光っているのに、少しも怖くなかった。赤いガラスのような鱗が、きれいだった。
近づいてくる鼻先に、僕は手を伸ばした。
その瞬間、目の前で爆発が起こった。
真っ白な光の渦に巻き込まれる。金色の火花がきらきらと飛び散る。「自分」の輪郭が消えて、光の中に溶けていく浮遊感と恍惚。
その光の中に、金色のものが浮かび上がる。それは、ドラゴンの瞳ではなく……
「……ヘルムート……」
その青い瞳が開いて僕を捕らえたところで、意識が途切れた。
「…あなたはこうなることを怖れていたのに、僕のせいであなたはヘルムートの姿を取らざるを得なくなった。僕たちの関係がこんなによじれてしまったのは、僕の責任だ…」
“……お前の願いを拒むことは、私にはできなかったのだ、私の『聖典』よ。だからこそ接触する前からわかったのだ。お前が私の『聖典』だと。我々は『鎖』を求め、『聖典』を求める。いつも我々が一方的に求めるだけだ。なのにお前は、私を求めた。死を望んでのことではあったが、愛する者の姿をした都合のいい身代わりではなく、この姿の私自身を求めてくれた。その瞬間にわかったのだ。
お前に求められることは、どれほど私に喜びをもたらしてくれただろう。私に触れたいというお前の切なる望みを、どうして私に拒めよう。…だが、私には本当にお前が望んだ消滅を与えることだけはできなかった。『聖典』の望みを叶えたいのに叶えられないという葛藤の末、私が選んだのは、お前の記憶を封じることだった。私と出会ったこと、私がヘルムートを消したこと、私に死を与えてくれと望んだこと、私がヘルムートの姿に受肉したこと…。私はヘルムートとして、お前が求めてやまなかった肉親の愛や、お前はここに存在することを望まれているのだという自信を与えてやろうとした。
しかし、それは間違っていた。そもそもお前が私の『聖典』となったのは、私を身代わりではなく、私自身を求めたからだったのだ。グリフィンが『聖典』の愛を得たときに、気づくべきだった。あの少年は兄の姿をしていても兄ではないと知っていて、グリフィン自身を愛したからこそ、あれは「真実の愛」だったのだと”
「……赤龍……っ」
忍は地面に手をついて身を乗り出した。
「どうか、僕の過ちを許してくれ…。もしあなたが望んでくれるのなら…やり直したい。ヘルムートとしてではなく、あなたともう一度やり直したいんだ……」
“忍……”
赤龍は、頭をもたげた。
“それがどういう意味なのか、わかっているのか?”
「わかっている……つもりだ」
忍の脳裏を、置いてきた人々が過ぎった。りなともな。K2とミカ。ゾフィー、香山、ソールズベリィ。…父には、別れの挨拶を済ませてきた。死の迫った父親へのではなく、この世界から去ることになるかもしれない息子からの。
「…正直言って、まだ、あなたとどんな関係を築けばいいのかわからない。あなたを愛するということが、どういうことか…。それに、もしあなたを大切に思ったら、僕にはあなたを失うとわかっていて、あなたに死を与えるなんて嫌だ。…さっきでさえ、あなたを失ったかもしれないと思ったら、あんなにも絶望的な気持ちになったのに…。
…僕の方こそ、あなたの望みを叶えたくても叶えられなくなってしまう。そんな『聖典』なんて、あなたは必要ないだろう……?」
“………”
パアッ…と赤龍の体から光が迸ったかと思うと、白いもやをまとわりつかせながら、ヘルムートが現れた。十二歳のヘルムートの姿の、赤龍が。
「忍。私はもう待たない。転生したお前が『聖典』となるかどうかなどわからないし、なるとしても、私が欲しいのは今のお前からの言葉だけだ。だが、お前が望むのならば、叶えよう。お前が私を愛してくれたとしても、その寿命が尽きるときまで、その言葉は言わなくていい。お前が死ぬ一瞬前に、ただ一言、『愛している』と言ってくれ。それまで私は、お前と共にあると誓う。…そう、こう言うのだったな」
ヘルムートは、座り込んで見上げる忍の左手を取った。
「……死がふたりを分かつまで」
「ヘル……」
ヘルムートは、忍の手の甲に口づけた。忍は驚いたが、嫌ではなかった。ヘルムートに触れられただけで体が硬直した以前が嘘のようだった。
唇を離して、ヘルムートは忍と目を合わせた。近づいてくるヘルムートを、忍は目を閉じて待った……。
ぎゃああ!悶絶!!自分で書いておいて、「あんた頭おかしいよ!」と叫びたくなるような場面ですな!赤龍は「霊的存在」だから、「結婚」つーのは純粋に「契約」という意識なんだな、きっと。だからあんなクサい科白でさらりとプロポーズしたに違いない!・・・そ、そう思ってくださ・・・い・・・(でないと怖い考えになってしまいそうだ・・・)
おかしいなーこの話はやおいには持ち込まないぞー(とりあえず、書く範囲内では!)と思っていたのですが、なんか、勢いで・・・
それでもちゅー2回のところを、1回は手に変更してみましたが、単に余計にぶっ飛んだ場面にしてしまっただけという気が・・・
あ、ワードではなくテキストからコピーしたら、余分なデータがくっついてなかったらしくいっぱい文が詰め込めましたので、分割せずに済みました。というわけで、次の妄想話は週末くらい・・・?今度で完結です。今、普通に地球で暮らすか赤龍の結界内で暮らすか(どっちにしても新婚生活・・・?)、この期に及んでまだ悩み中・・・(オイ)
赤龍の台詞・・・確かに、読んでて身悶えてしまいました(笑)
きゃー恥ずかしー!と思いつつもにやけてしまいます。
なんというか・・・「私の嫁になってくれ」と言ってるように聞こえちゃって(似たようなものでしょうか/爆)
続きが楽しみです!小姑のいる地球に帰って見せ付けるのか、結界内でハネムーンか・・・どちらも美味しいですねv
次回の最終話、期待しておりますー。
忍、流され易すぎですね;前に「君、何でもすると言わなかったかい」とあげ足とられたことを忘れてしまったのでしょーか。小さいもの可愛いもの好きなので、大きいヘルムートには反抗できても、小さいヘルムートにはよろめいちゃうのかもしれません(笑)(ロリでもないし、ショタでもない!と本人は怒りそうですが;)