熊本熊的日常

日常生活についての雑記

加山又造展

2009年02月13日 | Weblog
神谷町で友人と待ち合わせ、東麻布の「あか羽」で昼食を共にした。友人と別れてから出勤まで時間があったので、六本木まで足を伸ばして加山又造展を観てきた。

加山又造をこれだけまとめて観るのは初めてのことである。国立近代美術館で観た「春秋波濤」やブリューゲルの「雪中の狩人」との対比でしばしば語られている「冬」は印象に刻み付けられているが、自分の中ではそれほど注目度が高い作家ではなかった。改めてこれだけ多くの作品を前にしてみると、自分の目指す何物かがあって、それを追い求め続けた苦悩のようなものが感じられる。「苦悩」というと語弊があろうかと思うが、求道者の姿勢とでもいうのだろうか。素晴らしい作品だとは思うのだが、表現者としての自我が勝ってしまい、それを素直に受け容れる人にとっては良いのだろうが、私は観ていて幸せな気分を感じない。単に相性が悪い、と言ってしまえば身も蓋もないのだが。

会場入り口直後に3つの大作「雪」「月」「花」が並ぶ。これはどれも好きだ。特に「雪」がいい。先月帰国の折に飛行機の上から見た、雪に覆われた大地に河が流れる風景を思い出した。それはちょうど日本海を横断して日本上空に差し掛かったところだった。なにはともあれ帰るべきところに帰ってきたという安堵の気持ちと雪に覆われた山河の風景が自分のなかで関連付けられ、その気分が「雪」という作品によって呼び覚まされたということもあるかもしれない。

「花」は速水御舟の作品を彷彿させる。会場奥の「夜桜」も似たような表現なのだが、花と炎を対比させているのが面白い。確かに花の咲き乱れる様には炎が踊る姿を連想させるものがある。他に牡丹を描いた作品もあったが、こちらは花そのものを強調している。そこにはオキーフの作品に通じるエロチシズムを見ることもできないわけではないだろう。裸婦像よりも官能的だ。

裸婦像は藤田嗣治のような肌で、構図は誰かの写真集で観たものを思わせる。図録の解説によれば、裸婦を描くことは加山にとってはひとつの転機をもたらしたそうだ。しかし、単に作品として観れば、絵画の割には理が勝ってしまって商業デザインのようだ。おそらく、加山という人は女性がそれほど好きではないのかもしれない。あるいは、裸婦を描くということそのものを妙に意識しすぎていたのかもしれない。

結局、加山の絵というのは自然の表現で最も活きるような気がする。勿論、私の勝手な言い分だが、「雪」「春秋波濤」「天の川」といった屏風絵にこの作家の持ち味が色濃く表れているように思う。