東京国立博物館で開催中の妙心寺展を観てきた。「悟る」という言葉をしばしば耳にするが、その意味がいまだにわからない。辞書などには迷妄を去った真理を知ること、などとあるが迷妄だの煩悩だのといったことを含めて、人のありようのすべてがこの世の真理なのではないのか。禅の世界では不立文字、すなわち言葉を超えたところに真理があるということらしい。なかには真理を求めて苦行を積んでみたりする人もあるようだが、それで得たものがあったとして、それがどうしたというのだろうか。日常生活のなかに真理を見ずして、どこに真理があるというのだろうか。
宗教は、それが何であれ、思考や行動の指針や尺度として人の心に作用する。禅は、坐禅に見られるように、誰もが自分自身の中に備えているとされる仏性を発見することで、真理を得ようとするものだそうだ。禅に限らず、思考という行為は極めて個人的なものである。それが、寺を形成し、宗派を形成し、一国の政治にまで影響を与えるようになることに、どこかまやかしのようなものを感じてしまう。「悟り」を得ることと、権力というものとが素直に結びつかないのである。
妙心寺は1337年、花園法皇が自らの離宮を禅寺としたことに始まったそうだ。今年は開山として迎えられた関山慧玄の650年遠諱を記念して、今回の展覧会が催されることになったとのことである。その関山慧玄の遺品も展示されているが、どれも質素なものばかりだ。それは彼がまさに禅僧であったことの証でもあろう。その高い人格に惹かれ多くの人がこの寺に詣でるようになったというのも説明がつく。そうした人々のなかには時の権力の座にあったり、あるいはそれに近い立場にいたり、豪商のような経済力に恵まれた人がいたとしても不思議ではない。しかし、そうした人々の心の問題と、政治や権力の問題とが絡み合うということは、やはり素直に理解できないのである。
尤も、宗教と政治権力の密接な関係というのは洋の東西を問わず広くみられることである。要するに、人が集まるところには政治が生まれ、心という不定形のものを扱う世界は政治の道具となりやすいということなのだろう。昨今、やはり宗教に絡んでの紛争は絶えることがない。不定形の問題として急速に存在感を増しているのが環境問題だ。これもそのうち政治の道具として世界に大きな波紋を投げかける時が来るのだろう。
ところで、本展の展示は美術品としても興味深いものばかりだった。とりわけ書が面白かった。書かれている文字は半分以上解読不可能なので、書かれている意味はさっぱりわからないのだが、単なる通信手段としての書状にまで、文字の佇まいとか文字列の美しさのようなものが溢れているということに、当時の貴人の美意識を見る思いがした。
宗教は、それが何であれ、思考や行動の指針や尺度として人の心に作用する。禅は、坐禅に見られるように、誰もが自分自身の中に備えているとされる仏性を発見することで、真理を得ようとするものだそうだ。禅に限らず、思考という行為は極めて個人的なものである。それが、寺を形成し、宗派を形成し、一国の政治にまで影響を与えるようになることに、どこかまやかしのようなものを感じてしまう。「悟り」を得ることと、権力というものとが素直に結びつかないのである。
妙心寺は1337年、花園法皇が自らの離宮を禅寺としたことに始まったそうだ。今年は開山として迎えられた関山慧玄の650年遠諱を記念して、今回の展覧会が催されることになったとのことである。その関山慧玄の遺品も展示されているが、どれも質素なものばかりだ。それは彼がまさに禅僧であったことの証でもあろう。その高い人格に惹かれ多くの人がこの寺に詣でるようになったというのも説明がつく。そうした人々のなかには時の権力の座にあったり、あるいはそれに近い立場にいたり、豪商のような経済力に恵まれた人がいたとしても不思議ではない。しかし、そうした人々の心の問題と、政治や権力の問題とが絡み合うということは、やはり素直に理解できないのである。
尤も、宗教と政治権力の密接な関係というのは洋の東西を問わず広くみられることである。要するに、人が集まるところには政治が生まれ、心という不定形のものを扱う世界は政治の道具となりやすいということなのだろう。昨今、やはり宗教に絡んでの紛争は絶えることがない。不定形の問題として急速に存在感を増しているのが環境問題だ。これもそのうち政治の道具として世界に大きな波紋を投げかける時が来るのだろう。
ところで、本展の展示は美術品としても興味深いものばかりだった。とりわけ書が面白かった。書かれている文字は半分以上解読不可能なので、書かれている意味はさっぱりわからないのだが、単なる通信手段としての書状にまで、文字の佇まいとか文字列の美しさのようなものが溢れているということに、当時の貴人の美意識を見る思いがした。