熊本熊的日常

日常生活についての雑記

海 ささやかな幸福

2009年08月19日 | Weblog
海を描いた絵画作品は数限りないが、自分のなかで「海の絵」として真っ先に思い浮かぶのは青木繁の「海景(布良の海)」だ。遠景の水平線を形成する海の青が好きだ。その鯖の背のような青に惹かれてよくよく全体を眺めてみると、36.6X73.0cmの横長の画面に果てしなく深い奥行きが感じられるのである。遠くの、ところどこに白波の立つほどほどに動きのある深そうな海、中央の岩場を荒々しく洗う波、手前の浅瀬でゆらゆらと揺れる水面。その緩急のリズムが心地よい。

ブリヂストン美術館で開催中の「うみのいろ うみのかたち」はこの青木の絵で始まる。一昨年秋から昨年末にかけてロンドンに滞在していた時には、主だった美術館が入場無料であったこともあり、西洋の名立たる作家の大作を存分に楽しむことができた。東京には入場無料の大型美術館というものはなく、絵画自体も蒐集家の数が限られているので、ロンドンのようなわけにはいかない。ただ、他の都市については知らないが、少なくとも東京に関する限り、どの美術館も限られた数の作品をやりくりして、工夫を凝らした企画展を次から次と開催しているのはたいしたものだと思う。

自分が好きな海の絵には、以前にこのブログでも触れたモネの「熱海」(本当の題は「Antibes」)のようなものもある。これは「海景」とは違って穏やかな内海の風景だ。モネらしい光の表現に対するこだわりがあり、おそらくそれ故に心和む作品である。(2008年12月30日「花はなくとも」)

モネといえば、本展には「黄昏、ヴェネツィア」が出品されている。海の絵を集めた展覧会でこの作品を見て、改めてヴェネツィアが海に浮かぶ都市であることに気付かされた。海、と言っても、大海原もあれば街のなかに溶け込んでいる海もあるのだ。

藤島武二の「東海旭光」は題名が示唆する通り海から朝日が昇るところを描いたものだが、夕日にも見える。朝日と夕日は明らかに違うという感覚があるが、どのように違うのかということになると説明に窮してしまう。藤島は構図の単純化を指向していたそうだが、本作も一見すると海の絵だが、よくよく眺めると抽象画のように見えなくもない。

以前、出張先のリゾートで撮影した海に沈む夕日の写真を子供に見せて、それが朝日か夕日かと問うたことがある。子供はしばらく眺めてから「夕日」と断言した。そう考えた理由を尋ねると、「お父さんが早起きするわけないから」とのことだった。

シニャックの「コンカルノー港」は点描画だ。点は視覚世界の構成単位だとの考えによって、このような描画法を考え出したことは容易に想像がつくが、いかにも生産性は悪そうだし、労多くして効果の少ない描画だと思う。昨年夏に訪れたオルセーの区画45と46が点描画のコーナーになっていた。(2008年7月28日「備忘録 Paris 2日目」)そこで読んだ説明書きによれば、どの絵のことか記憶は定かでないのだが、1日中描いてコイン1枚分ほどの面積しか描けないとあった。「コンカルノー港」は点描画の歴史のなかでは、やや発展した時期のものだそうで、点の大きさや形状に工夫がある。それ以前に比べ点を大きくし、点の形も文字通りの点から長方形にしている。縦と横の長さを変えることで、その並べ方によって方向感を表現できるようになったのだそうだ。

芸術というのは常に新しいことを創造し続けるという使命を負うている。しかし、新しいものは容易に社会に受け入れられず、一方で、芸術家にも生活というものがある。創造のために自分の命をすり減らすことができるほど貪欲な自我を持った者だけが芸術の世界を支えることができるということなのかもしれない。

同じ点描でも、点の意味するところが変わると作品は全く違った様相となる。クレーの「島」は題名が無ければ海の絵には見えない。クレーは昨秋から今年5月にかけてK20のコレクションが名古屋、東京、神戸を巡回し、私も3月20日にBunkamuraで観たが、何故か温かい印象を受ける。彼は音楽家でもあったので、抽象画とはいえ、見る者の心を愛撫するような視覚的リズムや間を表現しているのかもしれない。(2009年3月21日「ピカソとクレーの生きた時代」)

ブリヂストン美術館の第2室で全27作品という小さな企画展だが、これだけで少なくとも1時間は楽しい時間を過ごすことができる。無料というわけにはいかないが、各種割引もあり、地の利と満足度の高さを考えれば、ほとんど無料に近いと思う。このような施設が自分の生活圏内にあることは幸福なことだ。ちなみに今回は「ぐるっとパス」を利用した。