昨日、今日と落語を聴きに出かけてきた。昨日は桂歌丸と三遊亭好楽の二人会、今日は林家正蔵と柳家三三の二人会で、どちらも世代の異なる組み合わせである。
歌丸を聴くのは6月7日の小朝との二人会に次いで二回目、好楽は初めてだ。まず前座は三遊亭好の助で「寄合酒」、次に好楽が「親子酒」を演って仲入り。仲入り後は松野家扇鶴の音曲でトリが歌丸の「質屋庫」だ。「親子酒」は単純な噺なのだが、単純であるが故に落ちに至るまでの話に落語家の持ち味が存分に発揮される類のものだと思う。個人的にはYouTubeで聴いた10代目金原亭馬生が好きだが、「枝雀十八番」というDVDボックスに収められているのもいい。そうしたものに比べると、昨日の好楽はかなり端折った感じがして、物足りなさを感じた。歌丸は怪談系を得意にしているようで、このところ毎年夏に「牡丹灯籠」を演っている。「牡丹灯籠」は岩波文庫でも出ているが、本当によくできた話だと思う。全体としてひとつの物語になっているのは勿論のこと、どこをどう抜き出しても噺ができるようになっているのである。それはさておき、今日の「質屋庫」も歌丸らしい安心感のある噺だった。
問題は今日の正蔵と三三の二人会だ。前座は林家たこ平で「時そば」、次が正蔵で「番町皿屋敷」、三三が「小間物屋政談」で仲入り。仲入り後は三三、正蔵の順で「唐茄子屋政談」をリレー。年齢も落語家としてのキャリアも正蔵のほうが長いので、形の上では当然に正蔵が大トリとなる。しかし、この二人の噺は三三のほうが上手いと感じるのは私だけではあるまい。
芸というものは、それがどのようなものであれ、練習だけではどうにもならない要素というものがあると思う。代々落語家の家に生まれ、そうした人々に囲まれて成長すれば、それだけでも素養を養う上では大いに有利であろう。素養に恵まれ、精進を重ねれば、鬼に金棒、かもしれない。しかし、人間というものはそれほど単純に出来ているものなのだろうか。
確かに、落語や歌舞伎をはじめとする芸事の世界には世襲のような雰囲気があるようだし、政治家や医者の世界でも二世三世は今や当り前である。しかし、華々しい家系がどこまで遡っても華々しいかというと甚だ疑問もある。勿論、天皇家のような特別な家系もあるのは事実だし、私のような氏素性のはっきりしないような野郎には想像もつかない世界があるということくらいは想像できる。ただ、歴史を振り返って眺めれば、氏素性に頼った世界がろくなことにはならないように見える、のは私だけだろうか。
年功序列という秩序は、年齢という明確な基準を尺度とする点において公正である。発想というものが経験に基づくものである限り、長い時間を生きているということには、それ自体に意味のあることでもあろう。しかし、人には得手不得手というものがあり、俗に「才能」と称されるものもあり、氏素性や年齢といった言語化できる要素だけでは人間というものを語ることができないのも、少なくとも私にとっては、経験的事実である。
落語の二人会というものがあり、どちらをトリに据えるか、ということについてあれこれ考えてみると、年功序列で素直に了解できることもあれば、微妙な違和感を覚えることもあった、ということだ。
歌丸を聴くのは6月7日の小朝との二人会に次いで二回目、好楽は初めてだ。まず前座は三遊亭好の助で「寄合酒」、次に好楽が「親子酒」を演って仲入り。仲入り後は松野家扇鶴の音曲でトリが歌丸の「質屋庫」だ。「親子酒」は単純な噺なのだが、単純であるが故に落ちに至るまでの話に落語家の持ち味が存分に発揮される類のものだと思う。個人的にはYouTubeで聴いた10代目金原亭馬生が好きだが、「枝雀十八番」というDVDボックスに収められているのもいい。そうしたものに比べると、昨日の好楽はかなり端折った感じがして、物足りなさを感じた。歌丸は怪談系を得意にしているようで、このところ毎年夏に「牡丹灯籠」を演っている。「牡丹灯籠」は岩波文庫でも出ているが、本当によくできた話だと思う。全体としてひとつの物語になっているのは勿論のこと、どこをどう抜き出しても噺ができるようになっているのである。それはさておき、今日の「質屋庫」も歌丸らしい安心感のある噺だった。
問題は今日の正蔵と三三の二人会だ。前座は林家たこ平で「時そば」、次が正蔵で「番町皿屋敷」、三三が「小間物屋政談」で仲入り。仲入り後は三三、正蔵の順で「唐茄子屋政談」をリレー。年齢も落語家としてのキャリアも正蔵のほうが長いので、形の上では当然に正蔵が大トリとなる。しかし、この二人の噺は三三のほうが上手いと感じるのは私だけではあるまい。
芸というものは、それがどのようなものであれ、練習だけではどうにもならない要素というものがあると思う。代々落語家の家に生まれ、そうした人々に囲まれて成長すれば、それだけでも素養を養う上では大いに有利であろう。素養に恵まれ、精進を重ねれば、鬼に金棒、かもしれない。しかし、人間というものはそれほど単純に出来ているものなのだろうか。
確かに、落語や歌舞伎をはじめとする芸事の世界には世襲のような雰囲気があるようだし、政治家や医者の世界でも二世三世は今や当り前である。しかし、華々しい家系がどこまで遡っても華々しいかというと甚だ疑問もある。勿論、天皇家のような特別な家系もあるのは事実だし、私のような氏素性のはっきりしないような野郎には想像もつかない世界があるということくらいは想像できる。ただ、歴史を振り返って眺めれば、氏素性に頼った世界がろくなことにはならないように見える、のは私だけだろうか。
年功序列という秩序は、年齢という明確な基準を尺度とする点において公正である。発想というものが経験に基づくものである限り、長い時間を生きているということには、それ自体に意味のあることでもあろう。しかし、人には得手不得手というものがあり、俗に「才能」と称されるものもあり、氏素性や年齢といった言語化できる要素だけでは人間というものを語ることができないのも、少なくとも私にとっては、経験的事実である。
落語の二人会というものがあり、どちらをトリに据えるか、ということについてあれこれ考えてみると、年功序列で素直に了解できることもあれば、微妙な違和感を覚えることもあった、ということだ。