ドコモのwifiを解約した。契約からちょうど2年を経て更新月に入ったので、解約したのである。初めてドコモの携帯を契約したのはP207だったと記憶している。この当時は最新型だったが、最後に使ったドコモの携帯電話は当時の勤務先近くの量販店でほぼ無料で入手した型落ちのNECのスマホだった。P207のほうはかなり長く使ったが、最後のスマホは昨年の夏にSBのiPhoneに乗り換えるまで1年足らずしか使わなかった。P207のときは便利なものができたなと感心していたが、NECのスマホは使い勝手に不満があってスマホというのは厄介なものだとの印象しかなかった。使い勝手という点ではiPhoneが快適なので、機種によってずいぶん違うものだと、別の意味で感心している。今日解約したのはモバイルwifiルーターで、iPadを買ったときに契約したものだ。iPhoneになってからはiPadの出番が無くなっていたので、毎月の料金がもったいないと感じていた。これでドコモとの直接の縁がとりあえず切れた。
かつて、電話といえば電電公社、その後のNTTより他にサービスプロバイダーは無かった。通信網というものは当然に社会インフラであり、電気や水道や都市ガスと同じように安定した品質の信頼できるサービスが提供されるのが当然のものだった。だからこそ、そうした事業を担うのは「公社」であり、「水道局」であり、あるいはそうしたものに準じる組織だった。インフラというものはひとたび設置されてしまうと、後は維持管理が事業の主体となる。そうした流れのなかで、インフラ事業も民間企業が担うようになった、ということなのだろう。それで利用者の側が幸せになるなら結構なことだと思う。
さて、これで自分の通信インフラはSBとNTT東の2社体制になった。電気は東電で、ガスは東ガス、水道は水道局で、通勤は京王とJR。生活が当たり前に維持できれば何の不足もないのだが、当たり前の状況ではないときにも生活を維持できるようにするのが社会インフラというものだろう。先の震災のとき、私が暮らしていた都内某地域では電気もガスも水道も止まらなかったが、携帯電話はつながらなくなった。公衆電話は機能していたので久しぶりに手帳のポケットに挟まっていたテレホンカードが活躍した。こういう時でも携帯が当たり前につながっていれば、キャリアを変えなかったかもしれない。どのキャリアも同じように機能しないのなら、通話料が安くて使い勝手が良いものが選好されるのが理屈というものだろう。
震災といえば、あの震災で電気の供給が脅かされる事態が発生したことは周知の事実だ。自分が暮らしている場所が停電にならなくてよかったと安堵している背後で、電力供給源の地域のなかに暮らしが立たなくなってしまったところが発生したということに衝撃を受けた。それは電源の種類の問題というより、その電源を選択するに至った事情にまで遡らないと解決できない問題であるような気がする。あれからもうすぐ3年が経とうとしているが、問題の根の深さが時間の経過とともに深くなっているのではないか。電源選択の問題は単に技術や安全性やコストの問題ではなく、この国がどのような国家戦略の下に運営されているかを知る一端であるように思う。それなのに、震災でも停電にならずによかったと安堵している自分が怖い。