熊本熊的日常

日常生活についての雑記

初天神

2014年01月13日 | Weblog

初天神の日に父親と息子が連れ立ってお参りにいく珍道中を描いた噺が落語の「初天神」で、今時分の寄席ではよく取り上げられているはずだ。行事としての初天神は1月25日で、菅原道真が生まれた日でもあり亡くなった日でもあるとの言われによる縁日だ。

「天神」と言えば「天満宮」、菅原道真を祭神とする神社を思い浮かべる。世間では必ずしもそればかりが「天神」というわけでもないようで、神様一般というか信仰対象総称というような意味で使われることも多い気がする。正月に妻の実家に帰省した折、家のなかに仏壇とは別に祭壇が設けられていて、そこに「天神様」がお祀りしてあった。拝礼の順序として、まず「天神様」に二礼二拍手一礼をしてから仏壇に向かってご先祖様に手を合わせる、となっていた。この「天神様」はあの「天神様」なのかと妻に尋ねてみたところ「知らない」とのこと。昔からこの辺りではどの家でも天神様をお祀りしているのだそうだ。

ところで、今日は亀戸天神へ参拝してきた。特に理由はなかったのだが、近所に布多天神という大きな神社があり、そこに行こうと思ったのだが、天気も良かったので亀戸あたりまで足を伸ばしてみようか、という理由にもならない理由で出かけたのである。亀戸天神に参るのは高校受験の頃以来なので30数年ぶりになる。亀戸駅から天神社へ至る通りに並ぶ商店はおそらく当時とは違うだろう。今となってはどのような店が並んでいたのか記憶にないが、今は大手飲食チェーンの店舗が目立つ。天神様への参拝客がこの商店街の需要としてどれほどの位置付けなのか知らないが、思いの外リピーターが少ないのか、リピートしても途中は素通りなのか、いずれにしても見かけほど商売は楽ではなさそうだ。

かつて神社仏閣は集客施設でもあった。特定の祭神に対する信仰というよりも素朴に天然自然を敬う気持が人々の間に強く在ったのではないだろうか。落語のネタにも神仏を扱ったものは多いし、広重の「名所江戸百景」をみても殆どの絵に神社仏閣が登場する。亀戸天神は「亀戸天神境内」として藤の季節のものがあるほか、亀戸天神の近くにあったとされる「亀戸梅屋舗」が取り上げられている。昔の人が何を想って神社仏閣を訪れたのか知らないが、素朴に何事かを願い祈るという行為が快感であったのではないだろうか。以前、このブログに掃除をした直後の部屋の落ち着きが心地よいというようなことを書いた記憶があるのだが、たとえ一瞬でも心をきれいさっぱり虚しくするということが素朴に気持よかったのではないかと思うのである。

今は空ということを忌避する時代なのではないだろうか。空白を不安に感じる文化になってしまったのではないだろうか。確かに初詣は賑わう。しかし、それは神仏を拝むための行為ではなく、世間と同じことがしたいというだけのこと、己の欲望を再確認するだけのことでしかなく、また、そういうことが精神を安定させる時代なのではなかろうか。なにがどうということではないのだが、どことなく落ち着いた風情の境内を歩いていて、ふと、そんなことを考えた。