年明け最初の落語会である。まだ1月なので一応は新春興業で、演目のほうもそれらしい楽しい噺が並んだ。滑稽噺でありながらも、ただの馬鹿話ではないところが落語の良いところで、今回の演目でも考えさせられるところもあった。例えば「雛鍔」では金銭を「不浄なもの」としている感覚にはっとさせられた。金銭が何故「不浄」なのか、噺のなかでは触れられていないのだが、こうした噺が成り立つ背景にそういう共通感覚のようなものがあったということだろう。そして、その噺が今に生きているということは、そうした共通感覚もまた依然として残っているということだ。金銭と物事の価値との違いということについては、以前に「千両みかん」という題でこのブログのなかで書いた。古典落語と呼ばれる噺には、底流に共通の価値観があると思う。
金銭が何故「不浄」なのか。不浄な金銭というのは価値と切り離された金銭のことであって、金銭が一律に不浄というわけではあるまい。噺のなかで登場する幼い若君は、価値云々ということを理解するには人生経験も薄弱で知識も不十分なので、学習段階としては金銭の存在すら教えられていないということなのだろう。庭に落ちていた銭を見つけて「これはなんじゃ?」と教育指南番に尋ねたとき、それで物品や用役を購入することができるという表面的なことだけを教えてしまっては、将来の為政者としてまともに育たないということを周囲の大人達が理解している、という設定が重要だ。金銭は拾うものではなく、価値を産み出した対価として得るものであり、その価値は社会からそれと認知されたものでなくてはならない、ということは当然のことなのだが、「千両みかん」の番頭のような人のほうが多いのが現実だろう。
価値とはなにか、自分が産み出すことのできる価値はどれほどのものなのか、というようなことを考えもせずに待遇の善し悪しを云々するのは盗人と同じだ。他人様のものを盗んで猛々しく自己主張をするというのは卑賎な行為であり、そういうところから出た金銭を手にするのは不浄なことだ。しかし、価値というものは容易に把握できるものではない。考えあぐねている間に金銭は天下を回っていく。とりあえず目先の金銭に飛びつくしかないのが現実というものではないだろうか。士農工商とはいいながら、ものを言うのは商のほうであったりする。結局、士農工商の社会は滅びてしまうのが歴史の現実で、共産主義を謳った社会が実質的には消滅するのも同様だ。要するに我々は皆卑しいのである。もう笑うしかない。
本日の演目
入船亭ゆう京 「道具屋」
柳亭市馬 「雛鍔」
三遊亭兼好 「一分茶番(権助芝居)」
(仲入り)
春風亭一之輔 「普段の袴」
柳家三三 「橋場の雪」
開演 18:00
終演 20:30
会場 よみうりホール