わずか数日ではあるが、奈良の街を歩いて印象に残ったことがたくさんある。古い街並みを活かしながら新しい商売をするとか、古さを売りにするといったことは珍しいことではないだろうが、商売ではなしに家並みに手間隙をかけるというのは、そう容易なことではない気がする。ならまちを歩いていたら、真新しい雨樋が目に入った。今時珍しい銅製だ。銅は錆びる。新品は黄金色に近い光沢を発しているが、やがて光沢は失われて緑青を吹いてくる。その変化の過程では必ずしも見場の良い状態ではないときもあるのだが、時代がそこそこに入って状態が落ち着いてくると目にすっと入るようになる。つまり、当たり前に美しくなる。
何年か前に上野の東京国立博物館の表慶館を改修するに際して、銅葺きの屋根をどのように仕上げるかということが議論になったそうだ。銅を葺き直せば屋根の色艶がそれまでとは全然違うものになってしまう。勿論、それは改修直後のことであり、そこから年月を経ることで元の状態と同じにならないにしても似たようなものになる、だろう。しかし、結局は改修前の状態に似せるべく、緑青のような色で塗装を施した。私はその嘘っぽさのほうに違和感を覚える。
ならまちの銅の雨樋の家主がどのような考えで雨樋を銅にしたのか知らないが、そういう細かなところへの気配りが古都の暮らしのように感じられて、妙に嬉しかった。