熊本熊的日常

日常生活についての雑記

本物の知恵

2015年10月09日 | Weblog

法隆寺で感心したことはいくらもあるのだが、そのなかでも強く感じたほうのことのなかにパーツのばらつきの大きさというものがある。木材は時代が付いて見た目はどれも同じような古い材にしか見えないのだが、柱を支える礎石の形は見事にばらばらだし、屋根も遠目にはなんということもないが、ひとつひとつの瓦をよく見れば綺麗に並んでいることが奇跡に感じられるほど色形にばらつきがある。

改めて法隆寺を見てみたいと思うようになったのは「法隆寺の最後の棟梁」である西岡常一氏の聞き書きをまとめた『木のいのち 木のこころ』という本を読んだこともきっかけのひとつなのだが、実物を前にして棟梁の言葉を読み返すと腑に落ちることばかりだ。

以下引用
、、、木は人間と同じで一本ずつが全部違うんです。それぞれの木の癖を見抜いて、それにあった使い方をしなくてはなりません。そうすれば、千年の樹齢の檜であれば、千年以上持つ建造物ができるんです。これは法隆寺が立派に証明してくれています。(『木のいのち 木のこころ』新潮文庫 14頁)

、、、製材の技術は大変に進歩しています。捻れた木でもまっすぐに挽いてしまうことができます。昔やったら木を割りますから、まっすぐに製材しようと思うたら木を見わけななりません。ですから逆に言いましたら、今の大工のほうが難しいんですわ。木の癖を隠して製材してしまいますから、見分けるのによっぽど力が必要ですわ。製材の段階で性質が隠されても、そのまま捻じれがなくなるわけではありませんからな。必ず木の性質は後で出るんです。(同書 21頁)

、、、癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。(中略)ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが、個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん。そんな訓練もせんですむ。それなら昨日始めた大工でもいいわけですわ。(同書 22頁)

、、、面倒を乗り越えて捜してきた、一つずつまるで違う自然石に合わせて一本ずつ柱の底を削って乗せたんですな。
 このほうが丈夫やったんです。柱の木は全部個性がありますし、強さも違いますな。それが同じ石の上に乗せられ、同じように揺すられて同じ力が出せますか。地震が来たとしましょうか。いっせいに揺れますわな。今の建物やったら土台はボルトで止められていますから、みんな同じ方向に揺れ、「遊び」というもんはないですな。揺れををすべて同じ方向に取ってしまいますわ。軍隊の行進みたいなもんです。揃っていていいようですが、上で揺すられる建物はたまりませんわ。上に行くほど揺れは大きゅうなって、しまいには崩れてしまいます。こんな揃ったのがいいんやないんです。
 自然石の上に 立てられた柱の底は方向がまちまちです。地震が来て揺すられても力のかかりかたが違いますわ。それとなによりボルトのようなもので固定されていませんわな。ですから地震が来ましたら揺れますし、いくらか柱がずれるでしょうな。しかし、すぐに戻りますな。こうしたそれぞれの違った「遊び」のある動きが地震の揺れを吸収するんですわ。(同書 35頁)

以上、ほんの触りでしかないのだが、西岡棟梁の言葉にはいちいちどきりとさせられる。今手元にあるのは西岡棟梁とその弟子の小川三夫氏、そのふたりの聞き書きをまとめた塩野米松氏の三人による著作として新潮文庫にまとめられているものだが、最初に西岡棟梁の本を読んだのは『木に学べ』という単行本だった。10年以上前に新聞の書評を読んで購入したのだが、正直なところ、その時は今ほどに感心して読んだわけではなかった。

大工の仕事というものが他の数多の仕事と没交渉に存在しているはずはない。仕事とそれを取り巻く人の営み全体が、その時々の世の中の何事かを表しているのだろう。我々ひとりひとりはそれぞれの生をそれぞれの考えに基づいて生きていくだけのことなのだが、今の自分と法隆寺とが全く無関係に在るのではないという実感を持つことができるようになったのは極めて最近のことである。何かきっかけがあったというのではなく、身体の衰えを顕著に感じるようになるほど齢を重ねてみてやっと気づくようになったあれこれと、西岡棟梁の言葉とが多少なりとも重なることを感じ取ることができるようになったのである。

今回、奈良を訪れて、気になっていたあの街、この寺、その風景を体感することで腑に落ちることがいくらもあった。出かけてみて本当によかったと素朴に思うのである。