熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ベレンコの夢

2016年09月06日 | Weblog

40年前の今日、函館空港にソ連のミグ25が着陸した。普通に着陸すれば普通に着陸できたのだろうが、事が事だけに操縦していた人も動転していたようで、滑走路の残り三分の一あたりに着地したのでオーバーランになってしまった。函館上空を旋回して空港を視認して着陸を行ったそうなので、滑走路が見えなかったわけではないだろう。逃亡なのだからけっこう動転していたにちがいない。尤も、動転していたのは本人だけではなく、スクランブルした航空自衛隊のパイロットも同じらしく、至近距離を飛行していながらミグが低空を飛んでいたので見失ったというのである。そういうわけで、誰に邪魔立てされることもなく着陸できたのだが、まさか冷戦真っ只中の西側主要国家のひとつである日本に邪魔なしで着陸できるはずはないと、たぶん最後の最後まで思っていたのではないか。

なにはともあれ、ミグを操縦していたベレンコさんは首尾よく米国に亡命できた。9月6日に函館に来て、9月8日には米国が亡命受け入れを表明、翌9日には米国へ向けて日本を出国してしまった。ベレンコさんもあっちに行っていいことばかりではなかっただろうが、当時最新鋭のミグ25を置いていかれた日本のほうはてんやわんや、だったらしい。今でもこうした有事において現場の自衛隊員がどう行動するべきかということの決めはないままだ。隣国との国境紛争もいくつか抱えたままで、そういうすぐに決めておかないといけないことが40年もそのままになっているというのは、我が国の優秀な役人や政治家のみなさんの誠心誠意の働きをもってしても解決できないくらい複雑怪奇な問題なのだろう。

そんなことはさておき、40年前のこの事件は大々的に報道されたので、当時中学生だった私も記憶している。なんといっても中学生なのでむずかしい話には関心がなく、専ら興味の対象はミグのほうだった。今なら、この事件のことを聞いて真っ先に考えるのはベレンコさんのその後だ。これはかなり大胆な事例だが、東西冷戦時代は双方に亡命事件や逃亡事件があった。以前にもここに書いたかもしれないが、1989年6月というドイツが東西に分かれていた頃のベルリンに遊びに行った。そこで訪れた壁の博物館(当時はMauermuseumと呼ばれていたと記憶しているのだが、現在はMuseum Haus am Checkpoint Charlieというのだそうだ)のことは今でもけっこう思い出す。場所の性質上、展示されているのは東ヨーロッパから西への逃亡の事例についてがほとんどだったと記憶している。逃亡の方法についての展示では、東側から西へ自分たちの手でトンネル掘って脱出した家族の逃亡時の写真、内装を剥がしてコンクリートを塗って内装を元にもどした車の実車、ハングライダー、高圧電線の上に張ってある避雷用兼作業用の電気の通っていない線に滑車を通して脱出した際の滑車、といったものがあったことを今でも憶えている。他には亡くなった人々の記録帳のようなものなどがあった。その記録の89年6月時点で最新のものが、逃亡死亡事例で同年3月20何日かにハンガリーからオーストリアに逃げようとして射殺された人のことだった。この年は11月になると東西ドイツが統一されることになるのである。ベルリンの壁がお祭り騒ぎのような喧騒のなかで破壊され、東西ドイツだけでなく東欧と西欧との往来が自由化されたのである。つまり、この人は逃亡をもう少し待っていれば、あるいは命を賭けて西に行かなくてもよかったかもしれないのである。しかし、その亡くなった人は、もしも無事に西側にたどり着くことができたら、彼が思い描いていたような夢の生活が実現しただろうか?夢を夢のままで最期を迎えることは、却って幸せなことだった、と考えることもできるのではないか?幸か不幸か今の生活から命を賭けてまでも逃げ出したい、というような生活は経験がないので想像がつかないのだが、どんな生活であれ、いいこともあればそうでないこともあるのが当たり前だと思うのである。

ところでベレンコさんだが、来年70歳になられるそうだ。幸せだろうか?