洲之内 徹『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社
ボックス本の3巻目。この本が収められているボックスを入手することになった事情はこのブログのなかの「読書月記 2017年5月」に書いた。
「芸術新潮」の連載をまとめたものなので、頭から読まなくとも、どこからでも読める。尤も、そういう構成が成り立つ物書きというのは案外少ないのではないかとの疑問が湧かないでもない。まだ本書で3冊目だが、洲之内の書いたものにはしっかりとした背骨を感じる。「いい絵」「いい作品」が自身の中ではっきりしている。もちろん、それはかくかくしかじかの条件があって、などという皮相浅薄なものではなく言葉を超えたところのものだと思う。そういうものがなかったら画廊など経営できない。もっと早く出会いたかった本だが、若い頃に出逢ったとしても、今ほど面白いとは感じなかったかもしれない。
以下、備忘録としての抜き書き。
いい絵は絵の匂いがするのである。(16頁)
いまは、見るものも知るものもあまりに多すぎる。いわゆる情報過多というやつで、若い人が絵を描くのでも、初めからあっちを見たりこっちを見たり、眼が外のほうにばかり向いていて、自分を見失ってしまう。万事世間様相手であるが、その世間のほうが大衆社会というのか、中間社会というのか、生活は平均化し、単位化し、生活の目標は小粒化して、せいぜい早くマイホームを持つことぐらいが人生の目的になってしまい、仕合せとか幸福とかいう言葉がやたらに流行する。こんな社会に、はたして芸術など必要だろうか。民主主義は芸術の敵だと、私はよく暴言を吐いていつも怒られるが、すくなくとも、民主主義的嗜好に浸透されてしまった人間と社会からは、もはや芸術も、芸術家も生まれないのではないか、という気が私はする。(95頁)
私はまたひとりでビールを飲みながら、草の上で日向ぼっこをしている二人の若い芸術家の姿を思ってみるのだった。そんなところに寝っころがって、いったい毎日を、彼等はどんなふうに過ごしていたのだろう。ひとりは小説を書き、ひとりは絵をかきながら、どちらも全く無名で、腹を空かせている。しかしなんとなく余裕さえ感じられるのは、彼等がそれぞれの宿命を信じているからかもしれない。仕事以外には何も考えていないのだ。
そういえば、友達のそういうつきあいというものがいいまはないが、それが無いということは、もっとだいじなものをなくしたということではないだろうか。そのだいじなものとはいったい何なのか。(132頁)
売れないということは、画家にとって、決して不幸とは言えない。絵が売れだすと、たとえどんな画家でも、お客の眼を意識しないでいることはむつかしい。画家の眼が、画家以外の者の眼で水を割ったような具合になる。他人の眼が絵の中に入ってくる。心ある画家にとって、他者の眼との戦いこそ真の戦いであろう。山口さんは終生、自分で絵を売りに行くということをしなかったらしいが、これも、他人の眼を意識しまいとする、潔癖な画家の本能のなせる業であったかもしれない。
「かすみ草」を見ていると、私はふしぎに、いま自分はひとりだという気がする。いい絵はみんなそうかもしれない。(202頁)
私はよく、戦争は絵かきにとって決して悪い時代ではなかった、その証拠に、戦争中には靉光や松本俊介のようないい画家が生まれたし、その他、みんな却っていい仕事をしたのにいまはどうだ、民主主義は芸術の敵なんだ、などと言って人を怒らせ、大方の顰蹙を買ったものだが、すべての画家にとって、ただ今を念じ、「いまの自分」「いまの生き方」を見据えて生きる日常があったということは、そうさせたのが戦争で、戦争は悪であっても、そのこと自体は非常にいいことだったのではあるまいか。(255頁)
松田さんのアトリエは汚いが、汚らしくはない。そういう汚らしいもの、他人を意識したものが一切ない。(286頁)
中尾 佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波新書
納豆本から繋がる本である。以前に読んだ佐々木高明の『稲作以前』には本書あるいは本著者への言及が多数あるが、本書にも佐々木への言及がある。彼らの学説が今でも生きているのかどうかは知らないし、そこに関心はない。ただ本書冒頭の記述に惹かれたのである。
文化の出発点が耕すことであるという認識は、西欧の学界が数百年にわたり、世界各地の未開社会に接触し調査した結果、あるいは考古学的研究、あるいは書斎における思索などを総合した結論である。人類の文化が、農耕段階にはいるとともに、急激に大発展をおこしてきたことは、まぎれもない事実である。その事実の重要性をよくよく認識すれば、「カルチャー」という言葉で、「文化」を代表させる態度は賢明といえよう。(前段 ii)
よく食べ物の好みが話題になる。「食べ物で何が好き?」という質問に対してどういう答え方をするのかで人となりの一端が出るような気がする。料理の名称を答えるのか、食材を挙げるのか、あるいは調理方法を挙げる人もあるだろうし、調理をする人を挙げることもあるだろう。どういう答えをする人がどういう人、という私の中の類型を披露するつもりもないし、そんな明確な類型を持ち合わせているわけでもない。ひとつだけ経験的なことを言わせてもらえば、かつての職場の同僚に「フカヒレスープ」と答えた人がいる。「正直に言うとみんな引いちゃう」とかなんとか言いながら放った言葉がこれだ。よく自分では料理などしないのに蘊蓄ばかり喧しい人がいるが、この人はそういう人ではない。但し、コルドンブルーの料理学校に通い、ワインエキスパートの資格を持ち、ちょっと前には料理学校の先生をしたり、フランス大使館の厨房の手伝いをしたり、という類の人で、私からすると浮世離れしているように見える。
「浮世」というのは生活だ。世の中には毎日外食という人もいるようだし、外食業界のほうにいる人にとってはそういう人を増やしたいのかもしれないが、毎日繰り返される生活のなかで何を当たり前に食べるのかということが、その人の世界観を形作っている気がするのである。世の中には当たり前にフカヒレを調達して当たり前にスープを作って毎日食べている人もいないわけではないだろうが、そういう人の「生活」とかものの見方というものを私は想像することができない。つまり、自分が考える「生活」の範疇を超えたところで暮らしている人を「人」と実感できないのである。
人はひとりでは生きていくことができない。他者とのかかわりのなかで、生きていく上で必要な無数のことを分担し合い、意識するとしないとにかかわらず互いを助け、ようやく生きていくことができるのだと思っている。たとえ一人暮らしであっても、人は湧くように生まれたのではない。必然か偶然かはともかく、関係のなかから生まれるのである。その関係は端的に具体的な形で認識できるものもあるし、関係の先を辿っていくと見たことも聞いたこともないようなところまで行ってしまうようなものもある。そういう有形無形具体抽象の綯交ぜになったところを生きているのである。綯交ぜのままでは生きているのかそうでないのか実感がないだろうが、なにがしかの実感がある存在を意識できると人は幸福を覚えるものであるような気がする。
その「実感」の内実は食事を共にするところにあり、その「食事」は自分たちが当たり前に支度するものである、と思うのである。食べるばかりになったものを消費するだけというのは餌であって食ではないと思う。たとえどれほど名のある料理人が作ったものであろうと、自分の与り知らないところで作られるものは食とは呼ばないと思うのである。自分で支度するということは、安定的に食材や調理道具や燃料を調達できる先があるということであり、毎日食べるのに耐えるだけの調理技能を関係性のなかから習得しているということである。つまり、食事はその人の世界観と密接にかかわるのである。
遠山 啓『無限と連続』岩波新書
書店の棚をぼんやり眺めていて、なんとなく読んでみようかと思って購入。
言葉というものへの関心はこのブログにも時々書いているが、世界が言葉でできていることを改めて意識させられた。例えば「無限」という言葉がある。「限界のないこと。有限性の否定。無際限。」といった意味だが、限界のないことを確かめることはできないのである。つまり「無限」ということは確かめようがないので「無限」とは言えないのである。仮に無限なるものがあるとして、無限に在るものと、別の無限に在るものを合わせたらどうなるだろう?無限はそれ以上にならない。
1+1=1
加えた「無限」の集合はどこへ消えてしまったのだろう?つまり、無限に在るということは存在する意味がないということではないか。ふとこんな言葉が思い浮かぶ。
色即是空 空即是色
本書には将棋を例にした記述がある。将棋盤も駒もそれ自体は単なる木片だ。将棋というゲームのルールがあって盤も駒も意味や価値を得る。ゲームのルールは社会の秩序とも言えるし、関係性とも言える。関係を規定するのは何だろう?貨幣は金属片だし、紙幣は紙片だ。それなのに、命がけで奪い合ったり、それをたくさん得ようと四苦八苦することもある。貨幣や紙幣の価値を規定している関係性は何によって社会の構成員の間で是認合意されているのだろう?
要するに「関係」とは「合意」なのか?将棋を指す人は、将棋の世界の約束事を与件として認知し受容しているはずだ。各自勝手にルールを決めていたのでは将棋は「将棋」として成り立たない。通貨や貨幣は、個人にとっては与件として存在しているはずだ。特定の商取引や投資対象として特定の組織や個人が考案した疑似通貨のようなものも存在するが、国内至る所で価値の交換手段や蓄蔵手段として流通し、海外の多くの地域でそれぞれの通貨と公定相場で交換可能なものは既存の環境として存在している。個人がそれを認めようが拒否しようが関係なく存在する。それは「合意」ではなく、否応なく呑まされるルールだ。
しかし、それを言い出したら、合意の主体である個人がそもそも主体たりうるのかという疑問も湧いてくる。人は生まれることを選択できない。生は否応なく与えられるものだ。「与えられる」というと「誰から?」というややこしい話にもなるので、生は否応なく発生する、と言ったほうがよいのかもしれない。少なくとも自らの意思で生まれたわけでもないのに権利だ義務だと声高に主張することができるのは何故だろうか?「人権」とはいかなる権利なのだろうか?そういう存在基盤の脆弱なものどうしが交わす「合意」とは何なのか?
つまり、世界はどこかに大前提を置いて、その前提の根幹は問わないことにするという更なる大前提を置かないと成立しないということなのだろう。世界で営まれている様々な生の経験の蓄積によって荒漠たる「大前提」に抵触するようなことが所謂「学問」の対象になるのだろう。「無限」とか「連続」といった類のこともそういうものであるように思う。
鈴木大拙『禅と日本文化』岩波新書
原著は英語で、それを北川桃雄が翻訳し、著者の鈴木が校閲している。著者が自分で日本語版も書けばよさそうなものだが、と思うのは著作というものについて素人だから思うのかもしれないし、そういうことを超えた何か事情があるのかもしれない。
そんなことはどうでもよいのだが、私も自分では晩年に入ったと思っている。日々の暮らしに顕著な変化があったわけではないのだが、気が付けば先がないというだけのことだ。それで何が気になるかというと、世間の風潮のようなものに対する違和感だ。なんだか何かに追い立てられているようで、またそのことを嬉々としているようで、不思議に思うのである。それと所謂「正解」に向かって突進しているようで、不思議に思うのである。なんだか無闇に右往左往するのが生き甲斐のように見えて、不思議に思うのである。
やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声
芭蕉の句だそうだ。本書の終わりのほうに登場する。
古池や 蛙飛び込む 水の音
これも芭蕉だが、本書を読んでその深さに驚いた。言われてみれば、なるほど禅なのだ。何を言われたのかは本書を読めばよいので、ここには書かない。
ただ生まれて、ただ死ぬ。結局それだけのことなのである。