熊本熊的日常

日常生活についての雑記

4時から飲み屋

2010年09月26日 | Weblog
学生時代の友人と何年かぶりに会うことになった。待ち合わせは午後4時にJR桜木町駅改札。ずいぶん早い時間だとは思いつつ、あるいはお茶だけで済ませなければならない状況でもあるのかもしれないとも思い、時間のことは何も触れずに同意した。

少し早めに住処を出て、横浜美術館で開催中のドガ展を観てから待ち合わせ場所に向かった。友人と落ち合い、久闊を叙しながら歩き始める。野毛に飲み屋街があるという。そのまま話をしながら飲食店街に入ると、4時でもけっこう客が入っている。横浜というところがそういうところなのか、都内の飲食店もそうなのか、私は知らないのだが意外な印象だ。友人は横浜市民なので、店の選択などは彼に任せてついていく。飲食店街の奥のほうにある「うだつ」という炉辺焼きの店に入る。さすがにまだ客はいない。カウンターの席に通され、飲んで食べて語り合い、午後8時半頃になって腰を上げた。

彼とは同じゼミの同じサブパートで、彼はゼミの代表でもあった。卒業して就職した業界が違うのでそれぞれの世界で25年を経て、昨年後半から今年前半にかけて同窓会が多かったという流れのなかで、たまたまFacebookで互いを再発見した。私は夜勤で平日の夜の自由がきかず、彼のほうは家庭があるので週末にそうそう勝手なこともできず、なかなか再会の機会を設けることができなかったのだが、今日ようやく実現した。

何年か前に互いの職場が近かったことがあり、人形町あたりで飲んだことがあったが、それ以来の再会だ。不思議なもので、生活している世界が違っても、会話が途切れることもなく、話題は次から次へと湧いてくる。店にいるので、何も注文せずに会話だけしているわけにもいかないから、4時間半ほどで切り上げることになったが、そういう枠がなければもっと会話が続いていた。私のほうは学生時代から交流が続いている友人というのはいないのだが、彼のほうは同じゼミの仲間の何人かとは今も時々会っているようなので、そうした仲間で近いうちに再会することにして、今日はお開きとなった。

ところで、時間つぶしのつもりで出かけたドガ展は予想外に面白かった。もともとドガという作家にはそれほど興味は無く、2008年7月にオルセーを訪れたときもそれほど印象には残っていない。ただパステル画が多いということが意外に思われた程度だ。そのパステル画が多い理由を今日知り、それと同時にまとまった作品を観て、以前に比べるとこの作家に対する関心は格段に高くなった。

展示会場を俯瞰してすぐに気付くのは、絵のスタイルが目まぐるしく変化していることである。裕福な家庭に生まれ、絵を描くことに関して親からも理解を得て、というようにたいへん恵まれた環境にあり、官立美術学校に入学してアングル派のルイ・ラモートに師事、アングル本人とも何度か会ったらしい。アングルは彼に「若いあなたは線をたくさん引くことだ。とにかく多くの線を引くことだ。記憶を辿って引いてもいいし、実物を見ながら引いてもいい。」というようなことを言ったようだ。作品とそのデッサンを並べて展示したものも少なくなかったが、アングルの言葉によほど影響されたのか、それともそもそも彼のスタイルなのか、緻密な描写が特徴的だ。人物の肖像をメインにした作品は、アングルを彷彿させるきめ細かい肌に描かれている。アングルと違うのは陰の強さだろうか。

しかし、そうした緻密な表現は1860年代までで、70年代以降はあの踊り子の作品のような、対象の個性よりも画面全体によって表現するスタイルへと変化する。それは視力の衰えという身体面での制約から、細部を緻密に描き上げることに無理が出るようになった所為もあるだろうし、彼の絵に対する考え方の変化のようなものもあるのだろう。それでも72年の「東洋風の花瓶の前の女性」や73年の「綿花取引所の人々」はまだ写実的な印象が色濃く残るが、73-76年の「バレエの授業」や76-77年の「エトワール」になると、それまでの作品とはずいぶん印象が違ったものになっている。また、「エトワール」はパステル画であることも印象が変った理由のひとつにはなるだろう。80年代に入り描かれるようになる裸婦像はもはや裸婦ではなく、裸婦を通してその向こう側にある目には見えない何物かを描き出そうとしていることがはっきりしてくる。ドガはアイルランドの作家ジョージ・ムーアに自分が描く裸婦像について説明している。
「今まで裸婦はいつも見る者を意識したポーズで描かれてきた。私の描く女性たちは、自分が存在すること意外には関心のない、単純で実直な人間なのだ。たとえばここに描かれたひとりの女性は足を洗っている。君はまるで鍵穴から覗いているような感じがするはずだ」(オルセー美術館 絵画鑑賞のてびき 日本語版 130頁)

彼が若い頃、師と仰いだアングルの裸体画とは次元の違う世界に入っている。時系列を追ってひとりの作家の作品を眺めることで、ひとりの人間の思考の成長や成熟が手に取るように観て取ることができる。そこに多少なりとも自分の思いや経験を重ねることができれば、絵画は単なる二次元世界の客体ではなく、自分自身の何事かを語る大きな口のようにも見えてくる。静寂であるはずの展示空間はその瞬間ざわめいているように感じられ、自分の心はときめいているように思われる。絵画を眺める愉しみは、その一瞬に出会うことでもある。

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