落語は、もういいかげんにしておこうと思っているのだが、予約サイトからの案内メールについつい反応してしまう。今日は小三治の独演会を聴きに草加まで出かけてきた。
席が前から6列目だったので、落語らしく聴くことができた。小三治はいつから正座椅子を使うようになったのだろうか。噺のほうはともかく、噺家が正座していられないとなると、やはり心配になる。私も、このブログに書いたと記憶しているが、ロンドンにいた時分に左下半身に痛みを覚えるようになり、その痛みから解放されるまでかなり長いことかかった。その痛みが完全に退く前に茶を習い始め、痛みが退いた後も、茶は苦行としか感じられない。とにかく、正座が辛いのである。
左下半身の調子が悪いのは、若い頃からだ。大学生の頃、酒を飲むようになり、酔うと何故か左脚が妙に重く感じられるようになった。普段はなんともないのだが、酒が入るとそうなるのである。そのうち下肢静脈瘤が現れた。重苦しさと静脈瘤との因果関係はわからないが、日常生活に支障はないのでそのままにしておいた。それから20年ほど経て、先ほど書いたような痛みの経験になるのである。静脈瘤のほうをなんとかすれば正座が少しは楽になるのか、そういうことは関係がないのか、考えてみたところで始まらないのだが、そのうち加齢で体力が落ちれば、どの道正座は辛くなるので、結果は同じことだろう。
ところで落語だが、開口一番は〆治の「ちりとてちん」。一般に落語会の開口一番は前座なのだが、〆治は小三治一門の惣領弟子だ。少し風邪気味なのか、出だしは喉をかばうかのような喋りだったが、噺が進むにつれて調子が上がり、聴いているほうとしてはほっとした。開口一番でこういう噺を聴くと、得をしたような気分がして嬉しいのだが、前座の噺も楽しみにしているので手放しでは喜べない。というのは、私も年を取ったので、確率として自分よりも長生きする人の芸の変化を楽しみたいのである。もちろん、完成形を感心して味わうのは嬉しい心持ちがするものだ。大袈裟な言い方をすれば、時として生きていてよかった、と思うことも、あったかもしれない。しかし、物事が変化していく様子を眺めるというのも楽しいものだ。落語会では前座のときの会場の雰囲気と、お目当てが登場したときのそれとは明らかに違う。その変化を体験することも愉快だし、なんとなく「前座だからねぇ」というような緩い雰囲気のなかで独り食い入るように聴いている感覚というのも、自分で勝手にそう思っているだけということは承知の上なのだが、愉快なのである。
もひとつところで、映画「小三治」のなかで、小三治の独演会に同行した禽太夫が開口一番として「ちりとてちん」を演じている。この一門はそういうことが多いのか、単なる偶然なのか、少し気になった。ついでに気になったことを続けると、会場である草加市文化会館ホールの緞帳だ。「草加市金融団」と刺繍がしてある。この施設の建設に関与した金融機関が共同でこの緞帳を贈ったということなのだろうが、「金融団」という名称に引っ掛かりを覚えてしまう。もう少しさらっとした名前を考えることはできなかったのだろうか。
以前にも書いたかもしれないが、「一眼国」は深い噺だと思う。自分が「まとも」と思っていることが、いかに根拠薄弱か、もっと言えば、正しいとはどういうことなのか、というようなことを考えさせられる。「厩火事」にしても、結論が同じであっても、そこに至る道筋は幾通りもあるということを雄弁に語っている。古典落語が時代を超えて存続しているのは、そこに普遍性があるからだ。噺のなかに登場する小道具類がわからなくとも、笑ったり泣いたりできるのは、たぶん噺家の力量に負う部分が大きいだろうが、噺そのものが語り継がれるのは、語り継がれる必然性があるからに他ならない。それは受けるとか受けないというような皮相なことではないのである。
落語に限ったことではないが、同じことを見たり聞いたりしたときに、そこから何を思い描くか、どのような発想をするか、というのは見る側、聞く側の世界観の問題だ。ある人にとっては面白いことが、別の人にとっては退屈であるのは当然のことで、例えば今日の落語会にしても、私の右隣の人と左前の人は寝ている時間のほうが長かったが、真後ろの人はマクラの一言一言に「あ、なるほどね」などと感心している様子だった。私の身体を中心にして、私の腕の長さを半径とした限られた範囲においてすら、同じ噺に対してこれほど異なる反応を示すのである。寝ている人とは今日の噺について語り合うことはできないだろうし、相槌を打ちながら聴いている人と語り合えば、自分が思いもしなかった発想に出会うかもしれない。しかし、仮に同じメンバーで別の体験をすれば、落語会で寝ていた人は雄弁に何事かを語るのかもしれないし、相槌の人は沈黙するのかもしれない。「厩火事」のマクラのなかで人の縁について語られていたが、自分にとって大事なことについて会話が成り立つ相手との出会いというのが縁というものではないかと、ふと思った。ここで「大事」というのは大小様々な流動的なイメージだ。自分のなかで「大事」なものというのは、状況により様々に変化するもので、その一瞬の状態が、誰か別の人の「大事」と反応した瞬間に何かが生まれるのではないだろうか。逆に、その人の「大事」が自分にとっては箸にも棒にも掛からないものばかりということが続くと、否定的な感情に捕われてしまうのだろう。尤も、それもまた縁のひとつだ。ひとつひとつの縁を大事にしていけば、生活はもっと豊かになるだろうか。
本日の演目:
〆治 ちりとてちん
小三治 一眼国
(仲入)
小三治 厩火事
開演:13時30分
終演:15時50分
会場:草加市文化会館
席が前から6列目だったので、落語らしく聴くことができた。小三治はいつから正座椅子を使うようになったのだろうか。噺のほうはともかく、噺家が正座していられないとなると、やはり心配になる。私も、このブログに書いたと記憶しているが、ロンドンにいた時分に左下半身に痛みを覚えるようになり、その痛みから解放されるまでかなり長いことかかった。その痛みが完全に退く前に茶を習い始め、痛みが退いた後も、茶は苦行としか感じられない。とにかく、正座が辛いのである。
左下半身の調子が悪いのは、若い頃からだ。大学生の頃、酒を飲むようになり、酔うと何故か左脚が妙に重く感じられるようになった。普段はなんともないのだが、酒が入るとそうなるのである。そのうち下肢静脈瘤が現れた。重苦しさと静脈瘤との因果関係はわからないが、日常生活に支障はないのでそのままにしておいた。それから20年ほど経て、先ほど書いたような痛みの経験になるのである。静脈瘤のほうをなんとかすれば正座が少しは楽になるのか、そういうことは関係がないのか、考えてみたところで始まらないのだが、そのうち加齢で体力が落ちれば、どの道正座は辛くなるので、結果は同じことだろう。
ところで落語だが、開口一番は〆治の「ちりとてちん」。一般に落語会の開口一番は前座なのだが、〆治は小三治一門の惣領弟子だ。少し風邪気味なのか、出だしは喉をかばうかのような喋りだったが、噺が進むにつれて調子が上がり、聴いているほうとしてはほっとした。開口一番でこういう噺を聴くと、得をしたような気分がして嬉しいのだが、前座の噺も楽しみにしているので手放しでは喜べない。というのは、私も年を取ったので、確率として自分よりも長生きする人の芸の変化を楽しみたいのである。もちろん、完成形を感心して味わうのは嬉しい心持ちがするものだ。大袈裟な言い方をすれば、時として生きていてよかった、と思うことも、あったかもしれない。しかし、物事が変化していく様子を眺めるというのも楽しいものだ。落語会では前座のときの会場の雰囲気と、お目当てが登場したときのそれとは明らかに違う。その変化を体験することも愉快だし、なんとなく「前座だからねぇ」というような緩い雰囲気のなかで独り食い入るように聴いている感覚というのも、自分で勝手にそう思っているだけということは承知の上なのだが、愉快なのである。
もひとつところで、映画「小三治」のなかで、小三治の独演会に同行した禽太夫が開口一番として「ちりとてちん」を演じている。この一門はそういうことが多いのか、単なる偶然なのか、少し気になった。ついでに気になったことを続けると、会場である草加市文化会館ホールの緞帳だ。「草加市金融団」と刺繍がしてある。この施設の建設に関与した金融機関が共同でこの緞帳を贈ったということなのだろうが、「金融団」という名称に引っ掛かりを覚えてしまう。もう少しさらっとした名前を考えることはできなかったのだろうか。
以前にも書いたかもしれないが、「一眼国」は深い噺だと思う。自分が「まとも」と思っていることが、いかに根拠薄弱か、もっと言えば、正しいとはどういうことなのか、というようなことを考えさせられる。「厩火事」にしても、結論が同じであっても、そこに至る道筋は幾通りもあるということを雄弁に語っている。古典落語が時代を超えて存続しているのは、そこに普遍性があるからだ。噺のなかに登場する小道具類がわからなくとも、笑ったり泣いたりできるのは、たぶん噺家の力量に負う部分が大きいだろうが、噺そのものが語り継がれるのは、語り継がれる必然性があるからに他ならない。それは受けるとか受けないというような皮相なことではないのである。
落語に限ったことではないが、同じことを見たり聞いたりしたときに、そこから何を思い描くか、どのような発想をするか、というのは見る側、聞く側の世界観の問題だ。ある人にとっては面白いことが、別の人にとっては退屈であるのは当然のことで、例えば今日の落語会にしても、私の右隣の人と左前の人は寝ている時間のほうが長かったが、真後ろの人はマクラの一言一言に「あ、なるほどね」などと感心している様子だった。私の身体を中心にして、私の腕の長さを半径とした限られた範囲においてすら、同じ噺に対してこれほど異なる反応を示すのである。寝ている人とは今日の噺について語り合うことはできないだろうし、相槌を打ちながら聴いている人と語り合えば、自分が思いもしなかった発想に出会うかもしれない。しかし、仮に同じメンバーで別の体験をすれば、落語会で寝ていた人は雄弁に何事かを語るのかもしれないし、相槌の人は沈黙するのかもしれない。「厩火事」のマクラのなかで人の縁について語られていたが、自分にとって大事なことについて会話が成り立つ相手との出会いというのが縁というものではないかと、ふと思った。ここで「大事」というのは大小様々な流動的なイメージだ。自分のなかで「大事」なものというのは、状況により様々に変化するもので、その一瞬の状態が、誰か別の人の「大事」と反応した瞬間に何かが生まれるのではないだろうか。逆に、その人の「大事」が自分にとっては箸にも棒にも掛からないものばかりということが続くと、否定的な感情に捕われてしまうのだろう。尤も、それもまた縁のひとつだ。ひとつひとつの縁を大事にしていけば、生活はもっと豊かになるだろうか。
本日の演目:
〆治 ちりとてちん
小三治 一眼国
(仲入)
小三治 厩火事
開演:13時30分
終演:15時50分
会場:草加市文化会館