熊本熊的日常

日常生活についての雑記

2011年12月07日 | Weblog

就職斡旋業者に登録に出かけた。外出したついでに、渋谷へ回って映画「ハラがコレなんで」を観て来た。

こういう直球勝負のような作品は大好きだ。石井監督の作品を観るのは「川の底からこんにちは」に続いて2作目である。どちらも作風が爽やかでいい。おそらく、この作品を観た人の多くは、「現実はこんなふうにはいかない」と言うだろう。映画なのだから現実と違うのは当然なのだが、「現実は」と訳知り顔に語ることで「現実」のなかに埋没していく醜さを想像できなければ、こういう作品を観るのは時間の無駄だ。

自分が失業中という苦境にあって希望的観測を求める所為かもしれないが、この作品を貫く生き方についての姿勢のようなものに共感を覚える。20代の石井監督がどのような経緯で「粋」について考えるようになったのか。1983年生まれとなると、所謂「バブルの崩壊」は彼が小学校低学年ということになる。「景気が良い」という経験のないままに成長した世代だ。映画のプログラムに収載されている監督へのインタビューのなかで、「この国に対する違和感みたいなものが大前提としてあります」と語っている。私の勝手な想像だが、それは世の中の雰囲気として漂う希望のなさ、あるいは希望のしょぼさ、というようなものではないかと思うのである。

私は日本の高度成長のなかで成長した。「大人」の世界は、無条件に憧れの対象だった。東京オリンピックの記憶は定かではなく、大阪での万国博覧会は見に行くことはできなかったけれど、当時、母がパートで働いていた製本会社から手に入れて来た乱丁のカタログを眺めながらただ「人類の進歩と調和」の具象化されたものに対し驚嘆していた。その後、日本列島改造論に象徴される開発投資があり、日常の風景として世の中が大きく変貌した。貿易摩擦という外交問題が浮上したのは、日本経済の競争力が高まったことの裏返しであり、そういう社会にあって「手に職をつけ」て「真面目に働く」ことを続ければ、安穏とした人生を送ることができるという大前提があったように思う。だから、大学生のときの就職活動では難儀をしたけれど、違和感を覚えるというほどのことはなかった。就職先は不本意なところだったけれど、卒業旅行でインドを1ヶ月ほど歩いてきたら、すっと気持ちを切り替えることができた。

確かに、今は私の若い頃のような気楽さは無いだろう。石井監督は20代にして、かなり現実的に生きるということについて向き合っている印象を受けるが、私の場合は、そういうことを真剣に考えるようになったのは子供ができてからだ。親は義務として子供を一人前に育てなければならない。そのためには、人としてどのように生きることを考えたらよいのか、というようなことへの自分なりの指針を示すことができなければならない、と思うのである。子供が小学校に上がり、中学生になり、高校に進んで、大学への進学に際して今後の進路を考えなければならない、という段階を踏んで自分自身も子供に対してそれ相応のことを語ることができなければ、子供から人として認めてもらえなくなってしまうだろう。石井監督は「粋」について、「簡潔に言うと、美意識のある生き様だと思っています。ものすごく、シンプルなことなんです。カッコいいってなんだろうと考えた時に、お金を持っているとか、スポーツができるとか、見た目がいいとか、そういうことではなく、僕のなかでは、美意識のある生き様なんですね。それを、粋という言葉に置き換えているんです。」と語っている。おそらく私が彼の年齢の頃は、こんなことは考えていなかった。カッコいいのは、お金を持っていることであり、スポーツができることであり、見た目がいいことだと思っていた、と思う。自分自身の美意識をかなり具体的にイメージできるようになったのは、ここ5年ほどのことでしかない。

主人公である光子が、幼なじみの陽一に、腹のなかの子供のために安静にしてろ、と言われてこう返す。
「子供のため子供のためって、大人が粋じゃなかったら、子供だってそんな世の中に生まれてきたいと思うわけないでしょ。大人がしっかりしなきゃ、何やっても子供のためになんかならないんだからね。」
そのシーンは可笑しくて笑ってしまうのだが、台詞の中身には同意できる。「大人」を「自分」に置き換えても意味は同じだ。人として自立するというのは、生計が立つということよりも、自分としての考え方を持つということだろう。自分というものがあってこそ、他人ときちんと向かい合うことができるのである。別の場面で光子は腹のなかの子供にこう語りかける。
「お母さん、フラフラしてたから、あんたにいろいろ迷惑かけたね。でも、これからはもっとかけるよ。でもいいじゃない。あんたもお母さんに迷惑かければ。お母さんの準備はOK。ドーンといくよ。」
世の中は持ちつ持たれつなのである。相対優位の原則に頼りながらも、自分が頼りにされたときには真摯にその課題に向かい合うという姿勢は、社会のなかで自分の居場所を確保する上で必須の条件だろう。

苦境にあっても、その姿勢だけは最後まで持ち続けなければと、己を励ましながら、今、こうしてこの文章を書いた。粋でありたいものである。


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