午前7時に住処を出る。途中、セブンイレブンに立ち寄って現金を引き出し、電車を乗り継いで羽田空港へ行く。
事前にヤフーの路線検索で乗り継ぎと時刻を調べておいたのだが、表示された乗り換えが不可能であることがわかった。念のため、ナビタイムでも検索しておいたのだが、こちらに表示のある乗り換えが正解だった。駅によっては、同じ駅名でよいのかと疑問に思うほど乗り換えに時間を要するところがある。おそらく、ヤフーのほうは駅による乗り換え時間の差異をあまり考慮していないのだろう。その点、この手のサービスでは後発であるナビタイムのほうがきめ細かく情報を網羅しなければならない必然性があったとも言える。ナビタイムでは乗り換えに便利な列車の乗車位置まで表示されるのである。
羽田空港駅に着き、改札を出て、階段を上がったところに航空会社の自動発券機が並んでいる。飛行機など滅多に利用しないので、搭乗手続きがこれほど簡単にできるようになっているとは知らなかった。最初に予約を入れた時に使ったクレジットカードを所定の場所に突っ込むと、後は表示される画面を「確認」するだけで手続きが終わり「eチケットお客様控」という紙片がべろっと出てくる。昔はカウンターに並んで航空会社の地上職員から磁気ストラップ入りの大きな厚紙の搭乗券を受け取ったものだ。そのうち、生体認証技術が発達すれば、空港に入った瞬間に自分が何者であるのかが認識されて、搭乗手続きが不要になるのかもしれない。セキュリティチェックは従前通りである。これも、持ち物をX線装置にかけなくても透視できるようになる日が来るのだろう。
稚内へ向かうANA571便(B737-800 167席)はほぼ満員である。旅行会社のバッヂを服に付けている人が多い。団体客のほうは明らかに平均年齢が高い。これまでに貯えたものもあるのだろうし、年金という安定収入があるのだから、不景気などどこ吹く風ということだろう。
飛行機は定刻通りにゲートを離れるが、出発便が多く誘導路上の行列に並ぶことになる。このため離陸までに20分ほどかかった。大都市の空港はどこも似たような状況だろう。自分が乗っている機の前にスカイマークの同型機がある。搭乗するときは飛行機の外観を眺める機会がないので、自分がどのような飛行機に乗っているかわからない。窓から見える他の機を眺めて、なかなか愛嬌のある姿の飛行機に乗っているのだと思ったりする。
羽田を離陸すると眼下にお台場、若洲のゴルフ場、葛西臨海公園、ディズニーランドが見え、その後に建物の密集した地域が続く。その密集度合いが凄い。これほどの建築物が広範囲に密集している地域というのは東京以外にあるのだろうか?阪神大震災級の地震に東京が襲われたら、阪神大震災級の被害では収まらないのだろうと、直感的に了解できる。そんなことを考えていたら地上の姿は雲に隠れてしまった。
雲がようやく途切れたと思ったら、津軽海峡を越えたとろだった。時刻は11時をまわっている。その後すぐに陸は雲の下になり、再び地上の姿が見えたのは機体が着陸態勢に入って高度を下げてからだった。岬に風力発電の風車が並んでいる。11時40分頃に稚内空港に着いた。雨が降っている。風力発電所があるくらいだから、風もそこそこ吹いている。「翼の王国」という機内誌にGeoffrey Bawaという建築家のことが書いてあった。面白かったので、東京へ戻ったらこの人のことを調べてみようと思う。
稚内では空港でレンタカーを借りるように手配しておいた。カウンターに行くと係員は「お待ちしておりました」と言って、カウンターを閉めてしまった。今日午前中の客は私ひとりなのだそうだ。最果ての地に来た、という気分になった。レンタカー会社のワンボックスカーで空港から営業所まで送ってもらい、そこで手続きをして車を借りる。釧路ナンバーのマーチだ。車で営業所を後にして、まずは宗谷岬に向かう。カーナビは当然付いているが必要はない。道路標識があるし、岬なのだから海沿いの道を進めばよいだけのことだ。さすがに交通量は少ない。勿論、制限速度というものはあるが、初めての土地でもあるので、どの程度の速度で走ったらよいのかわからない。つまらないことだが、手本のない状態で自分で物事を決めるというのは勇気が要求される。対向車はときどきあるのだが、自分の前に車は無く、自分の後にも車はない。気持ちが良いというよりも、気持ちが悪い。
それでも、宗谷岬に着いてみると、観光バスが何台も停まっていて、日本最北端の地の碑の周りに人だかりが絶えない。ここは最北端であるという以外には何も無い場所である。最北端であるというだけで、それにまつわる碑がいくつも建ち、観光客がやってくる。立地というのは不動産の価値にとって大きな要素であるということが、ここでも了解できる。
ここにある碑の類は、最北端の碑の他に、間宮林蔵の立像、ラペルーズ記念碑、あけぼの像、宗谷岬音楽碑、宮沢賢治文学碑、祈りの塔、世界平和の鐘、子育て平和の鐘、といったものである。他に宗谷岬灯台があり、旧海軍望楼がある。ちょっとした野外美術館のようである。
ちょうど昼時だったので、ここにあるアルメリアという店でウニ丼をいただく。「通常2,500円のところ本日に限り1,980円」という商店街の安売りのような宣伝文句にひかれて注文してみた。日常の買い物ではウニというものとは無縁なので、これが安いのかそうでもないのかわからないが、あつあつのご飯の上に、たっぷりとウニが乗っているだけだ。こういうのは料理とは呼ばないだろうが、それでもおいしい。
宗谷岬から海沿いの道を稚内市街へ向かう。最北の碑から少し南へ下ったところに間宮林蔵が樺太探検へ出航した場所を示す碑もある。今日は雲が多くて見えないが、海の向こうは樺太だ。
海沿いを走る238号線から稚内市街へ通じる40号線へ右折するあたりになると、かなり街らしくなってくるが、通りを歩いている人の姿が殆どない。一旦、車を稚内駅近くの駐車場に置いて、港のほうへ歩いてみる。港には北防波堤ドームというものがある。モダンなデザインだと思ったら昭和11年完成とある。ドームに沿うて海のほうへ歩いていくと、そこにはC55の動輪が飾られていた。ここは樺太の大泊とを結ぶ連絡船の拠点であった。このC55はここで車両の入れ替え作業に使われていた機関車のものだそうだ。何気ない風景のようだが、喪失した領土というものを初めて意識されられたように思う。東京で暮らしていると日本の国境などというものを意識することがない。国境を目の当たりにすることで、自分の国の歴史というものへの意識が喚起されるように感じた。今も、この動輪が置いてあるところとは別の埠頭から大泊へ往復するフェリーや樺太へのフェリーが出ている。
稚内港を後にして高台の上にある稚内公園を訪れる。ここにも記念碑がいくつもある。氷雪の門、九人の乙女の碑、教学の碑、南極観測樺太犬訓練記念碑、南極観測樺太犬慰霊碑が並ぶ。今日は天候の影響で見ることができないが、天気に恵まれれば、この場所からは樺太が見えるはずだ。北海道も樺太も未開の地であったところが、国家事業として開拓が推進された。北防波堤ドームのデザインに象徴されるように、おそらく、その時代の最新の技術や知識が駆使され、ひとりでも多くの人を開拓へ駆り立てようとしたのだろう。人々がそれぞれの思いを胸に新天地へ渡り、苦労を重ねてようやく生活の基盤が築き上げられようとした頃に、それが一気に瓦解してしまったことへの無念はどれほどであったろうか。太平洋戦争で日本国内が戦場になったといえば沖縄をはじめとする南方の島々のことが自然に思い浮かぶのだが、樺太では日本が連合国に対して降伏した8月15日以降も戦闘が続き、その混乱のなかで最期まで自分の任務を全うした病院の看護婦や郵便局の電話交換手が集団自決を図っていたということは、今回初めて知った。北方四島とは異なり、南樺太はサンフランシスコ条約のなかで日本が明確に主権を放棄した場所なので、再び日本の国土となることは無いのだろう。それにしても、稚内港の防波堤やそこに置かれている蒸気機関車の動輪、その港を見下ろす丘の上に建立された石碑の由来といったものを見聞するにつけ、四肢を切断されたような痛々しさを感じる。その痛みの中身については、ここでは語らないことにする。
稚内公園からノシャップ岬まではすぐである。ここは「喜びも悲しみもいく年月」という映画の舞台になった場所だ。その映画は観ていないし、観る予定もないが、最果ての地で灯台を守る人々を描いた作品であるということぐらいは知っている。今でも最果てではあるが、灯台の下には水族館があり、漁港や土産物店もある。ゴルフコースもあって、そこでプレーをしている人たちもいる。映画の当時とは、おそらく様変わりだろう。風景として気になったのは自衛隊のレーダーサイトである。草に覆われた高台に、緑色の大きな球が点在している様子はコンテンポラリーアートのようにも見える。
今日の宿泊は南稚内駅前にある稚内船員会館だ。バス・トイレは共同だが、朝食付きで一泊4,500円。南稚内の駅も、その周辺の様子も最果て感が漂っていて良いのだが、あまりに最果てだと、夕食をどのようにして調達するかが課題となる。
南稚内の飲食店街と称されるオレンジ通りは駅前から始まっている。それほど長い通りではないのだが、ここがこのあたりで最も飲食店が集中している地域なのだそうだ。寿司屋と飲み屋が多く、営業しているのかいないのかよくわからない店が殆どだ。通りの往来も殆ど無く、どの店も入るのをためらってしまう。結局、その通りのなかほどにある寿司を主体にした料理屋に入る。カウンターの席にすわると、いやでも目の前のケースに並ぶ寿司ネタが目に入る。握りのおまかせとホタテの刺身をいただく。その後、甘いものも欲しくなる。この通りにある工藤菓子店でマドレーヌと月餅と栗まんじゅうを買って宿に戻る。工藤菓子店の菓子はどれも自家製で、どれもおいしかった。ひとつひとつ丁寧に作られた感じの味だった。
食事をして満腹になったところで眠くなった。布団を出して、8時頃就寝。
事前にヤフーの路線検索で乗り継ぎと時刻を調べておいたのだが、表示された乗り換えが不可能であることがわかった。念のため、ナビタイムでも検索しておいたのだが、こちらに表示のある乗り換えが正解だった。駅によっては、同じ駅名でよいのかと疑問に思うほど乗り換えに時間を要するところがある。おそらく、ヤフーのほうは駅による乗り換え時間の差異をあまり考慮していないのだろう。その点、この手のサービスでは後発であるナビタイムのほうがきめ細かく情報を網羅しなければならない必然性があったとも言える。ナビタイムでは乗り換えに便利な列車の乗車位置まで表示されるのである。
羽田空港駅に着き、改札を出て、階段を上がったところに航空会社の自動発券機が並んでいる。飛行機など滅多に利用しないので、搭乗手続きがこれほど簡単にできるようになっているとは知らなかった。最初に予約を入れた時に使ったクレジットカードを所定の場所に突っ込むと、後は表示される画面を「確認」するだけで手続きが終わり「eチケットお客様控」という紙片がべろっと出てくる。昔はカウンターに並んで航空会社の地上職員から磁気ストラップ入りの大きな厚紙の搭乗券を受け取ったものだ。そのうち、生体認証技術が発達すれば、空港に入った瞬間に自分が何者であるのかが認識されて、搭乗手続きが不要になるのかもしれない。セキュリティチェックは従前通りである。これも、持ち物をX線装置にかけなくても透視できるようになる日が来るのだろう。
稚内へ向かうANA571便(B737-800 167席)はほぼ満員である。旅行会社のバッヂを服に付けている人が多い。団体客のほうは明らかに平均年齢が高い。これまでに貯えたものもあるのだろうし、年金という安定収入があるのだから、不景気などどこ吹く風ということだろう。
飛行機は定刻通りにゲートを離れるが、出発便が多く誘導路上の行列に並ぶことになる。このため離陸までに20分ほどかかった。大都市の空港はどこも似たような状況だろう。自分が乗っている機の前にスカイマークの同型機がある。搭乗するときは飛行機の外観を眺める機会がないので、自分がどのような飛行機に乗っているかわからない。窓から見える他の機を眺めて、なかなか愛嬌のある姿の飛行機に乗っているのだと思ったりする。
羽田を離陸すると眼下にお台場、若洲のゴルフ場、葛西臨海公園、ディズニーランドが見え、その後に建物の密集した地域が続く。その密集度合いが凄い。これほどの建築物が広範囲に密集している地域というのは東京以外にあるのだろうか?阪神大震災級の地震に東京が襲われたら、阪神大震災級の被害では収まらないのだろうと、直感的に了解できる。そんなことを考えていたら地上の姿は雲に隠れてしまった。
雲がようやく途切れたと思ったら、津軽海峡を越えたとろだった。時刻は11時をまわっている。その後すぐに陸は雲の下になり、再び地上の姿が見えたのは機体が着陸態勢に入って高度を下げてからだった。岬に風力発電の風車が並んでいる。11時40分頃に稚内空港に着いた。雨が降っている。風力発電所があるくらいだから、風もそこそこ吹いている。「翼の王国」という機内誌にGeoffrey Bawaという建築家のことが書いてあった。面白かったので、東京へ戻ったらこの人のことを調べてみようと思う。
稚内では空港でレンタカーを借りるように手配しておいた。カウンターに行くと係員は「お待ちしておりました」と言って、カウンターを閉めてしまった。今日午前中の客は私ひとりなのだそうだ。最果ての地に来た、という気分になった。レンタカー会社のワンボックスカーで空港から営業所まで送ってもらい、そこで手続きをして車を借りる。釧路ナンバーのマーチだ。車で営業所を後にして、まずは宗谷岬に向かう。カーナビは当然付いているが必要はない。道路標識があるし、岬なのだから海沿いの道を進めばよいだけのことだ。さすがに交通量は少ない。勿論、制限速度というものはあるが、初めての土地でもあるので、どの程度の速度で走ったらよいのかわからない。つまらないことだが、手本のない状態で自分で物事を決めるというのは勇気が要求される。対向車はときどきあるのだが、自分の前に車は無く、自分の後にも車はない。気持ちが良いというよりも、気持ちが悪い。
それでも、宗谷岬に着いてみると、観光バスが何台も停まっていて、日本最北端の地の碑の周りに人だかりが絶えない。ここは最北端であるという以外には何も無い場所である。最北端であるというだけで、それにまつわる碑がいくつも建ち、観光客がやってくる。立地というのは不動産の価値にとって大きな要素であるということが、ここでも了解できる。
ここにある碑の類は、最北端の碑の他に、間宮林蔵の立像、ラペルーズ記念碑、あけぼの像、宗谷岬音楽碑、宮沢賢治文学碑、祈りの塔、世界平和の鐘、子育て平和の鐘、といったものである。他に宗谷岬灯台があり、旧海軍望楼がある。ちょっとした野外美術館のようである。
ちょうど昼時だったので、ここにあるアルメリアという店でウニ丼をいただく。「通常2,500円のところ本日に限り1,980円」という商店街の安売りのような宣伝文句にひかれて注文してみた。日常の買い物ではウニというものとは無縁なので、これが安いのかそうでもないのかわからないが、あつあつのご飯の上に、たっぷりとウニが乗っているだけだ。こういうのは料理とは呼ばないだろうが、それでもおいしい。
宗谷岬から海沿いの道を稚内市街へ向かう。最北の碑から少し南へ下ったところに間宮林蔵が樺太探検へ出航した場所を示す碑もある。今日は雲が多くて見えないが、海の向こうは樺太だ。
海沿いを走る238号線から稚内市街へ通じる40号線へ右折するあたりになると、かなり街らしくなってくるが、通りを歩いている人の姿が殆どない。一旦、車を稚内駅近くの駐車場に置いて、港のほうへ歩いてみる。港には北防波堤ドームというものがある。モダンなデザインだと思ったら昭和11年完成とある。ドームに沿うて海のほうへ歩いていくと、そこにはC55の動輪が飾られていた。ここは樺太の大泊とを結ぶ連絡船の拠点であった。このC55はここで車両の入れ替え作業に使われていた機関車のものだそうだ。何気ない風景のようだが、喪失した領土というものを初めて意識されられたように思う。東京で暮らしていると日本の国境などというものを意識することがない。国境を目の当たりにすることで、自分の国の歴史というものへの意識が喚起されるように感じた。今も、この動輪が置いてあるところとは別の埠頭から大泊へ往復するフェリーや樺太へのフェリーが出ている。
稚内港を後にして高台の上にある稚内公園を訪れる。ここにも記念碑がいくつもある。氷雪の門、九人の乙女の碑、教学の碑、南極観測樺太犬訓練記念碑、南極観測樺太犬慰霊碑が並ぶ。今日は天候の影響で見ることができないが、天気に恵まれれば、この場所からは樺太が見えるはずだ。北海道も樺太も未開の地であったところが、国家事業として開拓が推進された。北防波堤ドームのデザインに象徴されるように、おそらく、その時代の最新の技術や知識が駆使され、ひとりでも多くの人を開拓へ駆り立てようとしたのだろう。人々がそれぞれの思いを胸に新天地へ渡り、苦労を重ねてようやく生活の基盤が築き上げられようとした頃に、それが一気に瓦解してしまったことへの無念はどれほどであったろうか。太平洋戦争で日本国内が戦場になったといえば沖縄をはじめとする南方の島々のことが自然に思い浮かぶのだが、樺太では日本が連合国に対して降伏した8月15日以降も戦闘が続き、その混乱のなかで最期まで自分の任務を全うした病院の看護婦や郵便局の電話交換手が集団自決を図っていたということは、今回初めて知った。北方四島とは異なり、南樺太はサンフランシスコ条約のなかで日本が明確に主権を放棄した場所なので、再び日本の国土となることは無いのだろう。それにしても、稚内港の防波堤やそこに置かれている蒸気機関車の動輪、その港を見下ろす丘の上に建立された石碑の由来といったものを見聞するにつけ、四肢を切断されたような痛々しさを感じる。その痛みの中身については、ここでは語らないことにする。
稚内公園からノシャップ岬まではすぐである。ここは「喜びも悲しみもいく年月」という映画の舞台になった場所だ。その映画は観ていないし、観る予定もないが、最果ての地で灯台を守る人々を描いた作品であるということぐらいは知っている。今でも最果てではあるが、灯台の下には水族館があり、漁港や土産物店もある。ゴルフコースもあって、そこでプレーをしている人たちもいる。映画の当時とは、おそらく様変わりだろう。風景として気になったのは自衛隊のレーダーサイトである。草に覆われた高台に、緑色の大きな球が点在している様子はコンテンポラリーアートのようにも見える。
今日の宿泊は南稚内駅前にある稚内船員会館だ。バス・トイレは共同だが、朝食付きで一泊4,500円。南稚内の駅も、その周辺の様子も最果て感が漂っていて良いのだが、あまりに最果てだと、夕食をどのようにして調達するかが課題となる。
南稚内の飲食店街と称されるオレンジ通りは駅前から始まっている。それほど長い通りではないのだが、ここがこのあたりで最も飲食店が集中している地域なのだそうだ。寿司屋と飲み屋が多く、営業しているのかいないのかよくわからない店が殆どだ。通りの往来も殆ど無く、どの店も入るのをためらってしまう。結局、その通りのなかほどにある寿司を主体にした料理屋に入る。カウンターの席にすわると、いやでも目の前のケースに並ぶ寿司ネタが目に入る。握りのおまかせとホタテの刺身をいただく。その後、甘いものも欲しくなる。この通りにある工藤菓子店でマドレーヌと月餅と栗まんじゅうを買って宿に戻る。工藤菓子店の菓子はどれも自家製で、どれもおいしかった。ひとつひとつ丁寧に作られた感じの味だった。
食事をして満腹になったところで眠くなった。布団を出して、8時頃就寝。