斎藤茂吉『万葉秀歌』(下)岩波新書
上巻に比べると下巻はあっさりとした印象だが、読み終えてみれば貼った付箋は下巻のほうが多かった。俳句や短歌を詠むことに漠とした憧れのようなものはあったが、実際に行動を起こしたのは一昨年に通信講座で俳句を勉強するまでは特に何もしてこなかった。昨年11月に始まったほぼ日の「万葉集講座」を受講し、今月の永田先生の講座を聴いて、いよいよ気持ちが前向きになった。歌は身構えて作るものではなく、己の思いを引き出して表現するもの。つまり、創るのではなく、在るものを発見して整える、とでも言ったらよいだろうか。実際の作業は同じでも意識のハードルが下がった気がする。
とはいえ、『秀歌』を読んでも、何がよくて何がまずいのか、やはりわからない。しかし、わからないながらもなんとなく「良い歌」の雰囲気は感じられるようになった、気がする。今、見返して付箋を貼った歌を並べると、
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝宿にけらしも 舒明天皇
春霞ながるるなべに青柳の枝くひもちて鶯鳴くも 作者不詳
恋ひ死なば恋ひも死ねとや我妹子が吾家の門を過ぎて行くらむ 柿野本人麻呂歌集
潮満てば水沫に浮かぶ細砂にも吾は生けるか恋ひは死なずて 作者不詳
東歌も自分に馴染みのある地名が出てきて引っ掛かるのかもしれないが、東歌を集めた巻第十四は印象に残った。
万葉集の締めが
あたらしき年の始めの初春の今日降る雪のいや重げ吉事 大伴家持
今でも国家事業として歌集が編まれた理由が腑に落ちないのだが、この歌を読むと言葉の力への信仰が背後にあるように思われる。万葉集の場合は国民の総力を結集して安寧を祈願しているということではないか。個々の歌は人の生活の様々な面を表しているのがよいのだ。つまり、万葉集は生活というものの尊さ、愛おしさを歌い上げ、神に対して「だからよろしくね」と祈っているのである。
ところで、この『万葉秀歌』に誤植を見つけた。こういうときにはどうしたらよいのかわからず、新書編集部と校正部に宛て、誤植を指摘する手紙を書き、該当箇所のコピーを添えて送った。投函したのが2月4日月曜日。すると6日水曜日に校正部から、14日に編集部から返信が届いた。2014年の改版の際に発生した誤植とのことだった。昨日今日出た本なら仕方のないところもあるが、第1刷の発行が1938年11月20日で、手元にあるのが2017年8月17日発行の第110刷なので、些細なものでも誤植はまずいだろうと思い、他人事ではあるのだが、心をざわつかせながら連絡の手紙を書いた。幸いにも、どちらの部署に宛てたものも然るべき人に読んでもらうことができたようで、ほっとしている。
辻原登・永田和宏・長谷川櫂『歌仙はすごい 言葉がひらく「座」の世界』中公新書
歌仙というものを知らなかった。よく美術館などで「三十六歌仙」の絵を眺めても、所謂有名な歌人を36人集めたものと思っていた。あれは歌人の姿の絵を眺めるものではなく、そこに記されている歌のほうを順に読み解いていくものだと今頃になって知った。その歌仙の最初の歌を発句といい、それが独立したのが俳句なのだそうだ。手元に『芭蕉全発句』というものがあるのだが、どうして「俳句」ではないのだろうと、なんとなく引っ掛かってはいた。ちゃんと調べておけばこんなことにはならなかったのだが、困ったものである。
歌仙は楽しそうだ。だけれどもハードルが高い。まず、友達がいない。ましてや、捌き手となるような知り合いがいない。歌仙を遊ぶには俳句や和歌の知識と経験だけではどうにもならない。仮に友達がいたとしても、言葉に込めるもの、言葉から読み解くものについての共通感覚のようなものがないと歌を連ねることができない。
歌や句についての根本を語っていると思われた遣り取りがある。
辻原 季語が必要になるのは、「五・七・五」という短さゆえですよね。
長谷川 約束事として決めておかないと成立しない。
永田 イメージの共有ですね。歌も古典和歌はそうなのです。
歌を連ねること自体に道具立てが必要なわけではない。しかし、ひとつひとつの言葉を膨らませたり奥行を与えたりするには知性、感性、教養が不可欠だ。それらは余程意識して投資をしないと身につかない。投資とはもちろん自分への投資だ。金も時間も意識もふんだんに使わないと遊びの土俵に立つことすらできない。そうやって自分を充実させて、その自分を軽々と捨て去って、次々に別の人物を演じる。充実しているからこそ惜しげもなく捨てることができるのだ。満ち足りていれば惜しむべきものなど何もない。そんな心境になってみたい。
木村敏『時間と自己』中公新書
本書が書かれた頃から精神病についての知見が深まり、現状とは少しずれが出ているかもしれないが、大まかな考え方には変わりがないだろう。
本書では分裂病と鬱病に見られる「異常」な時間認識を通して人が時間感覚を制御して自己を安定化させるメカニズムのようなものを解明しようとしている。「病」の特徴は自「己が確実な自己性を有していない」ことにある、という。どういうことかというと、端的には自分を取り巻く現実を受け容れることができないということだ。もっと言えば、自分にとって不都合な現実を受け容れられないということ。そんなことは程度の差こそあれ誰にでもあることだろうが、「病」となると病的に断固として受け容れられないということなのである。
こう書くと、世の中が丸ごと病気のようにも見える。些細なことに不平不満を募らせて、攻撃し易い相手を巧みに選んで、執拗過剰に難癖をつけてみたり犯罪的行為に及ぶというのは、今や日常風景だ。なにかというと己の「精神的苦痛」を喧伝する人が多い印象だが、日々の暮らしに息苦しさを感じるとすれば、「病的な世の中を生きている」と思うと妙に腑に落ちる。
となると、処世術としては、精神異常というものを一般常識として咀嚼理解して、それに対応する能力を身につけるべき、ということになる。また、病には予防も重要だ。まずは落ち着くこと。都合の良し悪しにかかわらず現実を認識して受け容れること。物事に永遠ということはなく、万物は生々流転するという当然のことを思うこと。つまり、当たり前に生きること。
小泉武夫『発酵 ミクロの巨人たちの神秘』中公新書
落語のマクラで、天気予報が当たらないのは地球の営みの長さに比べて人間があまりに新参者だからだ、というのがある。地球が誕生して10億年後にようやく微生物が生まれる。そこから35億年ずっとあちこちで活躍しているのである。そこに霊長類という括りにしても高々7000万年程度でしかない人間が「永遠」だの「普遍」だのと語る滑稽。ましてや「伝統」だの「文化」だのと語られることは、語っている本人の自己陶酔でしかないもののあはれ。
おそらく、人が生活の営みとして農や狩猟採集に勤しんでいた頃には、自分の手の記憶や経験を通して他者の思いを想像することができただろう。その想像を超えるところの現象事象を神という超人的存在を想定することによって己の世界観のなかに収めたのではあるまいか。つまり、人の目に見えないところのものは、とりあえず「神」の業なのである。時代が下って、人の知識や経験が深まるにつれて、その「とりあえず」のなかから現実社会のなかに取り込まれるものが増え、「神」のほうの領域の仕切り直しが繰り返されてきたのだろう。どれほど意識しているかどうかは別にして、人はそうやって科学や宗教と付き合ってきたはずだ。もちろん中には大きな潮流よりも潮だまりのほうに目が向いてしまってそこから離れられない人も出てくる。
しかし、それよりも深刻なのは、時代が下って人の生活が細分化されて、各自の経験領域が近視眼的に縮小していくことの方だろう。労働分業が経済の生産性を飛躍させたのはアダム・スミスの『諸国民の富』が説く通りだ。現に我々は物質的にはこれ以上望めないほどの豊かな生活を送っている。反面、生活が細分化されて経験領域が縮少したことで、他者への想像力も萎縮してしまったようだ。どうでも良いことに不平不満を募らせて闇雲に他者に難癖をつける分裂病社会は本書からも示唆を得るところだ。味噌とか梅干しを作ってみたり、糠漬けを作ってみるなどして、目に見えない住人の勤勉を実感してみたら、ものの考え方も変わるかもしれない。