熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2018年12月

2018年12月29日 | Weblog

上野誠『万葉集の心を読む』角川ソフィア文庫

ほぼ日の学校「万葉集講座」の受講を始めたので、講師の著作を読んでみようかと思った。上野氏の書いたものは「芸術新潮」の2010年4月号「平城京遷都1300年記念特集 万葉集であるく奈良」を繰り返し読んでいる。縁あって数年前に興福寺友の会というものに入会し、年に一度は奈良を訪れるようになったので、出かける時期が近付くと「今年はどこにでかけようか」などと考えながら頁をめくるのである。旅行に行くときは宿を駅の近くに取り、そこを拠点に行動することにしている。ただ、日本の宿は一泊が基本で長くても三泊というのが運営上の定型であるらしく、それ以上になると予約をとりにくくなるような気がする。安直に予約サイトなどを使ったりせず、宿に直接電話をすればそのようなこともないのかもしれないが、旅行など年に数えるほどしかしないのに「ここ」という宿があるはずもない。手軽に宿を探そうとすれば、予約サイトに自然に手が伸びる。

妻も私も人混みが苦手である。旅行に出かけても、訪れた先に人だかりを認めると「やめとこか」と引き返してしまう。だから毎年奈良に出かけて、そのたびに東大寺に参詣しても、大仏を拝んだのは一度だけだ。東大寺で必ず参拝するのは戒壇院だけで、そこから大仏殿の裏手を通って二月堂、三月堂、四月堂、手向山八幡、と回ることはある。方向を変えて転害門をぼんやり見上げてみたりしたこともある。奈良は東大寺以外では人込みというほどのところはないので、毎年愉快に過ごしている。

奈良は昔の寺院跡がそれとわかるようにあちこちにあるのがおもしろい。多くの寺がそれぞれに広大な境内を有していたことがわかる。現在に比べて交通手段が限られていた時代に、現在の感覚では考えにくいような広い境内の寺社があるということは、その存在がナントカ寺とかカントカ神社という個別のものではなく公として認知されていたということではないか?土地の私有という概念がいつから一般的になったのか知らないが、敷地の境界を歩いてまわると何時間もかかるようなものを構えるというのは、その主体にそれだけの権力があったということだろう。権力闘争や廃仏毀釈といった愚策の影響も大きいだろうが、そうしたものよりも根本的には科学技術の発展に伴う一般社会における知識量の増大と人々の思考の変化で寺社や宗教の在り方が変容したことで、主体の権力が衰退し、現象面としては境内が縮小したということになるのだろう。

最近のネット上での情報流通も社会や権威の変容のドライバーになっているはずだ。かつてマスメディアというフィルターを通して形成されていた世相や世論のようなものが参入自由のネットの世界でフィルターらしいものを経ずに形成されるようになった。一国の元首がネットで何事かをつぶやき、それが世界情勢に影響を与えるという、少し前には考えられないようなことも現実に起こっている。言葉というものが、特定の知識層や権力に独占されていた時代と、今とではかなり違ったものになっている。当然、言葉というものの意味も変容しているはずだ。或るまとまりのある社会のなかでの言葉、あるいは言葉を発する行為が、共有するところの薄い相手を大きく包含するなかで全く違った意味合いを持つようになることだってあるだろう。

それで万葉集だが、おそらく教育制度どころか教育という概念が今とは違ったなかで、読み書きができて詩作もできるという層が社会のなかでどのような位置を占め、どのような影響力を持っていたのか知らないが、そういう層の言葉である歌を集めて編纂したものだ。そこに表現されているものが、現代の大衆の想像力に収まるものなのかどうか、素朴に疑問に思う。それこそ、自分の知性の範囲内で推測できることだけを拾い集めて「鑑賞」だの「解釈」だのと分かったつもりになってしまうというのは、なんだか落語の世界のようにも見える。もし万葉の時代の人が今までずっと生きていたとして、世にある万葉集の歌の解釈だの評論だのを目にしたり耳にしたりして、「落語の「ちりとてちん(酢豆富)」や「転失気」みたいだねぇ」と笑い転げていたりする図が描けたりするかもしれない。

そもそも歌を詠むのは、聴かせたい相手があってのことなのではないか。歌を詠むような人は、日々の生活に追われてあくせくするようなこともなかったのだろうから、当時の貴重品である紙や筆記用具を使って目的もなく書いてみる、などということができたのかもしれない。しかし、言葉を発するという行為に限らず、凡そ人の行為というものには何かしらの目的があるのではなかろうか。歌は万葉の頃は必ずしも五七五七七というような形式が確立していなかったようだが、それにしてもある一定の語調とか型がある。野放図に言葉を垂れ流しているのではない。凝縮された言葉を遣り取りするには、相手との共通認識があって然るべきだろう。そのあたりの考察にお目にかかったことがないのは、単に私が不勉強というだけのことなのだろうか。

 

安楽庵策伝 鈴木棠三(訳)『醒睡笑 戦国の笑話』東洋文庫

かなり前から少しずつ読み進めていたものを漸く読了。落語の元祖のひとつと言われているものだ。「笑い」とは何かを考える上ではおそらく必読文献のひとつになるだろう。尤も、私は研究者ではないし、「笑い」について考えなければならい義理もないので、必読もへったくれもない。個人的には本文よりも鈴木氏の解説が面白かった。本書の解説というより落語関係の著作の多い関山和夫に対する批判だ。関山氏の書いたものは私から見てもお粗末で、そのことはこの「読書月記2018年4月」にも書いた。別に『醒睡笑』の解説で取り上げるほどのことでもないとは思うのだが、この分野の研究の厚みというのがその程度のものなのだろう。

何を面白いと思うか、何が笑いを呼ぶのか、というのは理屈ではないと思うのだが、理屈を考える商売の人は放ってはおけないのだろう。理屈のほうはさておき、笑いの方向性のようなものは他人との相性において大きなウエイトを持つ、と経験的に実感している。例えば、落語は本を読んでも面白くない。古典は筋もサゲもわかっているのに、噺家によって面白く愉快に聴くことができるし、聴くに堪えない噺家のもある。よく「息と間」などという。そうとしか言いようがないからそういう表現をするのであって、同じ話が話し手によって面白くもそうでなくもあるのは、やはり理屈を超えた何事かのなせる業だと思う。そして、同じことを面白いと思うかどうかというのは、相性を大きく左右する。ひとつには、ある現象の背後をどれほど共有できているかということが影響する。それは個人的な体験もあるだろうし、もっと幅広く所謂「文化」的なものであることもあろう。そうした価値あるいは世界観の共有があって笑い合えるような相手とは上手く付き合うことができるような気がする。一方で、他人を蔑んだ笑いというのがある。そういうことでしか笑えない相手とは付き合いたくない。

『醒睡笑』に収載されている話の多くも他人を馬鹿にしたようなものだ。ただでさえ文語調で読みにくい上に、少なくとも私には面白いとも思えないような話ばかりだが、これも落語の源流のひとつと言われると、改めて落語という芸能の値打ちのようなものを感じる。

 

岡井隆『今はじめる人のための短歌入門』角川ソフィア文庫

世間にはたくさんの「入門書」というものが出回っている。そういうものを手にする機会というのは近頃まず無いのだが、遠い昔の記憶を辿れば、そういうものを読んで一層の興味をそそられるというようなことはあまり無かったように思う。どこか読者をなめているような、或いは書いている本人が実は理解できていないような、そういう粗末なものという印象がある。

本書は題名のなかに「入門」の文字があるくらいなので入門書なのだろう。しかし、読者に対してかなり厳しい内容だ。生半可な気持ちで「短歌でも始めてみようかな」などと思っていると、「やめとこか」ということになってしまいそうだ。しかし、本気で短歌というものを詠んでみたいと思っている人が、取っ掛かりに手にすると、愈々気持ちがたかぶるのではないだろうか。「短歌入門」と言いながら、広く言葉というものについて考えさせられる深い内容があると思う。

短歌に関しては主張が一貫している。「個別化への指向」という言い方をしているが、要するに「あなたにしか詠むことのできないことを詠みなさい」ということなのだ。そのためにはどうしたらよいのか、ということを考えさせる道標のような構成になっている。「道案内」ではなく道標だ。「案内」というと手取り足取りの印象だが、あくまで自分で歩くことが前提だ。こういうものを本当の入門書というのだと思う。

本書は短歌入門だが、「短歌」を言葉一般に敷衍して読むことができる。「あなたにしか言えない言葉で話しなさい」ということだ。どっかで聞きかじったような誰のものだか皆目わからないような手垢だらけの言葉を並べたてるのではなく、自分の経験に根差した内容を的確に相手に伝わるように言葉を吟味して表現しなさいということだ。容易なことではない。しかし、そういう意識で丁寧に言葉を考えて生きていれば、たぶん、愉快だろう。

 

ラフカディオ・ハーン(著)、平井呈一(訳)『心 日本の内面生活の暗示と影響』岩波文庫

よく利用する或る大型書店で別の本を探していたときにたまたま目について買い求めた。著者が体験したこととそこからの考察をまとめた短かい文章が15編収載されている。外国の人が日本で数年暮らしたなかで得た知見や考察ではあるが、「外国の人」という部分は敢えて述べなくてもよいと思う。時代は日清戦争の頃、維新から20数年、ようやく日本に新たな秩序と価値観が芽吹いてきた頃ではないだろうか。自分がその時代を生きたわけではないので、あくまで想像なのだが、科学技術の振興による新たな知見の獲得が価値観といった人の内面に影響を与えないはずはないとは思うものの、基本的な倫理観に大きな変化があるとは思えない。今も昔も人というものの感情であるとか内面といったものはそれほど違わないのではないかと思うのである。

本書の最初の文章は「停車場で」、締めが「きみ子」。それらの間の話も印象深いのだが、『心』というタイトルの短編集の最初と最後を飾るものとしてこれらの文章が選ばれるということが、著者にとって「日本」あるいは「日本人」を象徴している。と同時に、ギリシャ生まれの筆者が日本という土地で体験したことが自身のアイデンティティを強く確認することになったということかもしれない。

今年のクリスマスイブのミサでローマ法王はマテリアリズムを批判する説教を行った。原語のニュアンスはわからないが、翻訳を読む限り違和感は覚えない。もし、ハーンがこの説教を聞いたら、何と思っただろうか。本書の「日本文化の真髄」のなかにこのような一節がある。
つまり、手っ取り早くいえば、けっきょく、ヨーロッパ文明の特異性が、機械や大資本の力をかりずに生きていこうという、人間本来の力を骨抜きにしてしまったがために、そこに不自由とか束縛とかいうものが生まれてきたわけである。こんな不自然な生きかたをいつまでもつづけて行けば、遅かれ早かれ、勝手なときに勝手に身を動かすような力は、しぜんと失われてくるにきまっている。(33頁)
この後に日本人についての記述が続くのだが、それは現代の日本人が失ってしまった能力だと思う。所謂グローバル化の必然だと思うが、価値尺度をデジタル化された単純明快なものに求めると、それを実現するためのプロセスが複雑怪奇になる、あるいはなってしまったというのが現状であるような気がする。今更後戻りはできないが、これだけ多くの人間が地球上に暮らしているのだから、デジタルのことは他の人たちに任せておいて、自分なりの単純な生活というものを指向することは無茶なことではあるまい。少なくとも私自身は残りの人生をでき得る限り単純なものにしたいと思っている。

 

 


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