熊本熊的日常

日常生活についての雑記

能を観る

2010年09月12日 | Weblog
初めてというものを観た。9月8日付「出会い」に登場する彫刻家先生が出演するというので、これも縁かもしれないと思い観に行くことにしたのである。たまたま今日、会場へ向かう途中、千駄ヶ谷駅を出たところで彫刻家先生と出くわし、能楽堂まで話しをしながら歩いたのだが、そのなかで先生が子供の頃から能が好きだったこと、今日の「紅葉狩」でシテを務める金春憲和氏が先生の幼馴染であること、といった事情を知った。

以前の勤務先で、社員旅行に修善寺の「あさば」を借り切るというところがあり、そこは敷地内に能舞台があることでも有名な旅館だった。そこで能を観たことはないのだが、能舞台の構造というものにはかねてから興味があり、規模は違うけれど茶室のしつらえに通じる数々の見立てで成り立っているところが面白いと思っていた。また、「あさば」からの帰りには伊豆箱根鉄道を三島田町で下車して佐野美術館に立ち寄ることにしていたので、そこで流されている能についてのVTRや展示の能面を通じて多少なりとも興味はあった。能の演目についても白州正子の著作などで多少の知識はあるものの、見ると聞くとでは大違いだ。演劇は原作や台本や役者といった個々の要素も大事だろうが、パッケージとしての仕上がりが結局は全てだろう。

演劇は能や歌舞伎のような古典芸能から現代劇まで様々なジャンルがあるが、程度の差こそあれ、見立ての組み合わせだと思う。現実の世界のある特定の部分を取り出し、そこに秘められている人間とか人生といったもののなかのある特定の事柄を作者の視点から描き出すのが演劇ではないだろうか。能の場合は、それが成立した当時の表現技法の制約のなかで、見立ての占める割合が多くなるため、その形式や個々の表現そのものがひとつの言語として機能しているということだろう。だから、形式や表現についての言語的約束事について観劇する側もリテラシーを持ち合わせていないと、舞台上の展開が理解できないということになる。能の場合は古典ということで、時代背景が現代とは異なることが最初から承知されているので、何の準備もなく観に出かけてしまっては何も得るところがない、というのは感覚的に了解できる。しかし、見る側にリテラシーが必要なのは現代の演劇や映画、文学にも共通したことだろう。そして、そのリテラシーを持つということは、新たな言語についての知識を持つということでもある。極端に言えば、新たに外国語を習得するくらいの心積もりで演劇や文学に対峙しないと、その本当の面白さというようなものがわからないのではないだろうか。

今回、私にとっての能観劇のためのリテラシーは、これまで50年近く生きてきたなかで意識するとしないとにかかわらず積み上げられてきた浅薄な知識や観念の断片と、能楽堂に用意されている演目解説だけである。幸い、いずれの演目もよく知られたものであったので、舞台で何が起こっているのかさっぱりわからない、というようなことにはならずに済んだ。

考えてみれば、リテラシーが要求されるのは演劇だけではなく、日常生活すべてにおいても言えることだろう。他者と関わるときに、相手の全てが理解できるわけもなく、自分の言いたいことが全て伝わることもない。互いに相手の表現することについての文法のようなものを知らなければ、永久にわかり合うことはない。相手の立つ土俵がどのようなものなのか、それを知るには自分が様々な土俵に立ってみるという経験を積む以外に方法は無いだろう。経験を積むことによって、人は初めて想像力を獲得するのである。経験を超えた発想というのはありえないのだから。演劇を観る態度というのは、生きる姿勢にも通じることなのだと思った次第だ。

金春会定期能 演目

安宅
焼栗
半蔀
(休憩15分)
紅葉狩

開演 12:30
閉演 17:30

会場 国立能楽堂

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