熊本熊的日常

日常生活についての雑記

落語家 噺家

2014年11月01日 | Weblog

今日も小三治は「落語家」ではなく「噺家」と呼ばれたいという話をしていた。辞書を引けば「落語家」の説明のなかに「噺家」とあり、「噺家」の説明のなかに「落語家」とある。日本語としては同義語なのだが、表記が違うということはそこに何がしかの理由があるはずだ。その違いが重要なのではなく、個人がそれぞれの言葉にどのような語感あるいは意味を見出すかという違いが、それぞれの個人にとって重要なのである。私も「落語家」と「噺家」は同じではないと漠然と感じる。

今日の小三治は高座に上がって思うところがいろいろに湧いたらしく、マクラは沈黙気味で、かといって噺に入るわけでもなく、だからといって聴いていてひやひやするような風情でもなかった。その昔、志ん生が高座で居眠りを始めたことがあるらしい。その時の観客は居眠りをする志ん生を眺めて喜んだというのである。嘘か真か知らないが、芸人もそういう域に達したら本物であるということなのだろう。

そもそも芸とは何か、落語とは何か、噺とは、ということを思わずにはいられない。自分が口演するわけではないのでそんなことを考えることもないのだが、同じ演目が語り手を変えることで全く違った噺になるというのはよくあることだ。それは落語に限ったことではなく、芝居も歌も舞踏も、たぶん芸事以外のことでもそうだろう。同じことをやっているはずなのに、同じにならないのは個別の技能や技量だけに拠ることではあるまい。おそらく、そこにその人の全てが表現されているのだろう。全て、というのは計量できないことも含めての全てである。

なんでもかんでも計量しようとする考え方がある。物事を細分化してこれ以上分けることができないという単位に落とし込んでしまう。その単位で扱うことで自由自在に物事を組み立てれば個人に依存することなく精緻に世界を再現することができる、という発想だ。学校教育のなかでも我々は原子というものについて通り一遍のことを習う。しかし、そうやって再現されたものを私は知らない。落語家・噺家でも登場人物や場面をコンポーネント化して、個々の人物やコンポの完成度を熱心に向上させ、それらを組み合わせることで噺を構成するタイプがあるように思う。個人的には「戦艦大和方式」と呼んでいるのだが、今広く使われている機械類や大型建造物などはこうした発想で作られているものが多いのではないだろうか。私は雀枝の噺は大和方式だと思っている。彼の噺にはどこか精緻に計算された跡のようなものが感じられ、噺よりも計算のほうが気になってしまう。おそらく、もう少し計算の精度が上がって、その痕跡が完全に消えてしまう域に達したら、全く新しい噺の世界が展開したような気がする。

対して人間国宝になった噺家は小さんも米朝も小三治も、芸道というような「道」を追求するタイプに私には感じられる。理屈ではなく全人的な在り方があって、そこから発せられる技芸に価値を置いているように思われるのである。落語というのは本来は軽みの芸だと思うのだが、国宝方式の人たちの芸はそれぞれに重い。もちろん、聴く側の先入観も多分に影響してのことなのだが、噺を聴いていて「凄い」と思ってしまう。特に前座噺のような高座にかかることの多い噺ほど「凄さ」を感じてしまう。それも鑑賞の楽しみなのだが、素直に「楽しい」とは感じることができなくて、「ありがたい」と感じてしまうのである。それは高僧の法話を拝聴するような噺であるように私は感じる。しかし、それは本来の落語ではないような気がする。それでも「落語」という分野で重要無形文化財の指定を受けるのはそういう人たちである。人間国宝を選定する立場の人たちは道が好きなのだろう。世の中に道が少なくて迷うことが多いから、道を示すかのような人が重宝がられるということなのかもしれない。

本日の演目
入船亭小辰 「鈴ヶ森」
古今亭志ん好 「風呂敷」
桂やまと 「阿武松」
(中入り)
桂吉坊 「河豚鍋」
柳家小三治 「お化け長屋」
開演: 18:00 終演: 20:45
会場:  府中の森芸術劇場 ふるさとホール


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