熊本熊的日常

日常生活についての雑記

どっちもどっち

2009年01月25日 | Weblog
1月22日付「銀座考」に関連して質問を頂いた。自分の子供にロンドンと東京をどのように説明し、何を伝えるか、というのである。都市としての個性があるロンドンと、利便性は高いがどこの国の街だかわからない東京を比べたらどちらが魅力的か、とも尋ねられた。

自分は日本人なので、ロンドンと東京とどちらが魅力的かと尋ねられれば、迷わず「東京」と答える。自分が重ねてきた時間と文化が東京とその周辺に偏っているので、そこで暮らすことに自然な心地良さを覚える。

しかし、ロンドンがお話にならないというわけでもなく、ましてや東京が文句無く良いというわけでもない。

東京、というより日本の建築やインテリアで違和感を覚えるのは、まがいものがまがいものとして堂々と跋扈していることである。例えば、家屋の外装材に使われるサイディングというものがある。このデザインで多いのが煉瓦模様である。煉瓦の壁が好きなら、煉瓦を貼ればよさそうなものだが、煉瓦模様のサイディングを貼って煉瓦の家に住んでいるつもりになる。家具などで、スチールや集成材に木目のプリントを貼った「木目調」ナントカというものも多い。そういうものを受け容れる美意識が理解できない。その素材のありのままを何故受け容れることができないのだろうか?なぜ一見して偽物とわかるような偽装を施すのだろうか?

銀座に関しては、局地的な「なんちゃってパリ」とか「なんちゃってミラノ」だのを並べただけの「なんちゃって大会」な街に成り下がってしまったように感じるのである。もともと、銀座は明治政府の欧化政策のなかで生まれた街並である。しかし、そこには単なる真似ではなく、欧州の文物を日本の文化に翻訳するという作業があったように思う。新しい文物を前にして、まず解釈があり、理解し、自分流に表現するという至極真っ当な過程があったはずだ。だからこそ、銀座が独自の文化の発信地となり得たのだと思う。なぜなら、理解できないものは表現できないからである。それがいつのまにか解釈も理解も表現もなくなってしまい、単に表層をなぞって満足している、真珠をつけた豚や小判を貼付けた猫が徘徊するようになってしまったのは、市場原理の必然的な帰結と言うべきなのかもしれない。

尤も、これはロンドンでも同じことである。リージェント・ストリートやオックスフォード・ストリートに軒を連ねる店舗は、今やその殆どがチェーン展開をする小売業者の店舗である。さすがにボンド・ストリートやその近辺の路地は往年の風格を残しているが、英国人が好きな(好きだった)品の良い骨董店や局部的に凝った手工芸品を扱う店はだいぶ少なくなってしまった。

「ウィンブルドン現象」という言葉がある。市場経済において、外国系資本が国内資本を駆逐してしまうことを意味するものである。テニスのウィンブルドン選手権で、会場となっている英国の選手が優勝争いから遠ざかって久しくなってしまったということに語源がある。ウィンブルドンはロンドンの南にあるのだが、ロンドンがあらゆる面において丸ごとウィンブルドン化してしまったかのような印象がある。あるいは米国化してしまったとも言えるだろう。そのきっかけとなったのがサッチャー政権時代の規制緩和策や国有企業の民営化といった施策に象徴される市場原理の浸透にあるようだ。数多く売れるものが市場を席巻する。数多く売れるのは大衆趣味のものということなので、個性は忌避され、結果としてチェーン店が繁盛するということになる。

こうして考えてみると、ロンドンも東京も似たり寄ったりということになる。それなら、自分の母国という情緒的な事情を除外してみても、街が比較的清潔で、公共インフラがまともに機能している東京のほうが、やはり魅力的という結論になる。ロンドンが個性的と感じられるのは、おそらく景観の影響もあると思う。しかし、建物や街並に個性があっても、その中身に個性がなければ「仏作って魂入れず」ということだ。実はロンドンも東京に負けず劣らず薄っぺらになっていると思う。

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