古本で購入した『深代惇郎の天声人語』を読了した。深代が天声人語を執筆していたのは1973年2月から1975年11月だ。当時の日本は高度成長の終盤に入ろうとするあたりだろうか。石油危機とそれに続くインフレ、公害問題、韓国の軍事独裁、ウォーターゲート事件などについての話題が目立つ。私は小学生だったが、それでも鮮明に記憶していることがいくらもある。しかし、そうした「懐かしい」話題というのはむしろ少なく、過半は昨日今日書いたものと言われても違和感のないものであることに驚かされた。それは、深代の洞察の深さに拠るところも少なくないだろうが、そもそも人間とかその社会というものはそう劇的に変化するものではないということなのだろう。
天声人語にいちいちタイトルは付いていないので、本にまとめる際に編者がタイトルを付してテーマ毎にまとめたのだろう。それにしても読んでいて気持ちが良いのは、筆者の目線に振れがないということか。少なくとも私がイメージする新聞人らしい批判精神と人間のあるべき姿のイメージのようなものが行間に溢れている。近頃は新聞というものと縁が薄くなったので、コラムどころか新聞そのものに触れる機会が無いのだが、たまに読むとがっかりして、やっぱり新聞はいらないとの思いを強くする一方だ。一体いつごろから新聞人がいなくなって新聞会社に勤めるサラリーマンばかりになったのだろうか。
文句を書き始めたら止まらなくなってしまいそうだし、それを読んだ人は「熊本の奴、ずいぶん年取ったなぁ」と思うだろうから、文句は止めておく。人間、年を取ると無闇に文句ばかりが多くなるものだ。それも老化のうちだろう。老化を承知の上で、ひとつだけ書き添えておく。
先週の頭に「アエラ」の取材依頼のメールをいただいた。かくかくしかじかのことでお話しをいただけないかという。或るアンケートについて私の回答がユニークだったということらしい。「アエラ」の取材はこれが初めてではないので、だいたい要領はわかっていて、ちょっとした親切心から「わざわざ取材というのもナンですから、ご質問を頂戴できればメールでお答えしますよ」と書き送った。すると、その通りになった。週刊誌という性質上、記事の準備に十分な時間をかけていられないのは理解できる。しかし、記事の内容をどれほど豊かにするかというのは、その背後にある取材量ではないのか。背後の厚みがあればこそ、深い一言を記すことができるのではないのか。出版不況などと言われて久しい。定期刊行物は次々に休刊や廃刊になり、かといって、ネット配信の出版が繁盛しているという話も聞かない。そりゃそうだろう。いい加減な記事ばかりの新聞雑誌などに誰が金を払うものか。単純につまらないから売れない。別に不景気だとかなんだとかということは個別の商品の動向には関係のないことなのではないか。
ところで、「天声人語」だが、ここに紹介したいことがたくさんある。かといって、丸々引用では著作権の問題もあるだろうし、私も書くのがたいへんだ。いくつか選んで、さらにそのなかから琴線に触れたところだけを紹介させていただく。
「インフレの本当の恐ろしさは経済問題ではない。それが人間を侵食し、誠実な人生をせせら笑うことにある。個人では、人を出し抜くすばしっこさがかっさいされ、地味にはたらく者はバカにされる。企業では、物を寝かせておくだけで得をし、物を作って売る方が損をする。
このような倒錯した世の中の仕組みに思い切った手を打たず、政治家たちは国民に向かって「道徳」を説く。おこがましい話ではないか。」(昭和49年3月24日)
「情報がはんらんし、実体を離れたイメージが君臨し、人の心は操られる。だが映像が美しく、言葉が誇張されるほど、不信もまたふくらんでいく。だまされることに対する警戒心は強まるばかりとなる。」(昭和49年6月15日)
「北爆のころ、米国の女性作家スーザン・ソンタグが北ベトナムを訪れる。米人パイロットの墓を見た。花が供えられ、木の墓標にパイロットの名と戦死した日付が書かれてあった。墓守に聞くと、棺は良質の木で作ったという。戦争が終わったあと、遺族が来てアメリカに持ち帰れるためだ、という答えだった。ベトナム戦争は何よりも、アメリカ文明の敗北であった。」(昭和50年4月23日)
「昔、謡曲の名人が道を歩いていると、謡が聞こえてきた。名人は供の者に「あの謡を、とめてみせようか」といって、自分で朗々とうたいはじめた。向こうの声はピタリと止まった。
数日後、名人は同じ供を連れて歩いていると、また謡が聞こえた。先日とは別の声だった。供の者が「この間のように、あれを止めてご覧になっては」というと、名人はしばらく耳を傾けていたが「あれは、とまらない」と答えた。下手には上手が分からない、という逸話である。もっと広く解釈すれば、独りよがりの人は正しい筋道を聞かされても、それを評価する耳を持たない、というたとえ話にもなるだろう。」(昭和50年8月17日)
「もう一つ、夕焼けのことで忘れがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者V・フランクルの本『夜と霧』(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない。
囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき、一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え上がる美しい雲」がある。みんなは黙って、ただ空をながめる。息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。数分の沈黙のあと、だれかが他の人に「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」と語りかけるという光景が描かれている。」(昭和50年9月16日)
深代最後の「天声人語」は昭和50年11月1日、その年の12月17日に彼は亡くなった。享年46歳。
深代惇郎の天声人語 (1976年) | |
深代 惇郎 | |
朝日新聞社 |