熊本熊的日常

日常生活についての雑記

無印に落胆する

2009年02月11日 | Weblog
先週から今週にかけて少しずつ家電や家具が揃い始めた。2月5日付「無印に驚異する」に書いたように、今のところ家具類は全て無印の商品だ。ベッドと整理ダンスはロンドンで使っていたものと同じモデルである。使っているときはさほど気にもしなかったのだが、帰国に際して処分する際、引き取り手の人たちと一緒に解体やら車への積み込みといった作業をした際に、そのしっかりとした造りが印象に残った。それで、今回も無印というわけだったのである。ところが、いざ商品が運び込まれてみるとロンドンでの印象や店舗での展示とは微妙に印象が異なる。一言で言えば、出来が悪い。

確かに、説明書のなかに、天然材なので品質のばらつきがある云々とは明示されている。しかし、表面の削り具合が粗いような気がするし、整理ダンスにはあからさまに欠けの補修跡があるし、引き出しの造りは明らかに粗い。4脚購入した椅子の1つにはがたつきがある。ロンドンで使っていたものも、今回購入したものも生産地は同じだが、生産工場が別ということなのだろうか。あるいは、過去1年数ヶ月の間に起こった原材料価格の高騰を克服すべく生産工程の簡略化が行われたということだろうか。いずれにしても、今回はがっかりした。

それに引き換え、予算オーバーで購入した東芝の掃除機は良い。2月1日付「掃除機」に書いたように、説明員の話に引き込まれてついつい買ってしまったのだが、使ってみて高いだけのことはあると納得できた。一言で言えば、使っていて気持ちよいのである。何がどのように「良い」のか、言葉では説明できない。なんだか妙に嬉しくて、毎日掃除機をかけている。「良い」というのはそういうことだろう。

まだ買い揃えなければならないものがあるのだが、それらはもう少し慎重に選ばなけばならない。

バベルの塔

2009年02月10日 | Weblog
外国人記者団のプレスツアーの取材を受ける精密板金業者で、その取材に同席させていただく機会を得た。取材時間は1時間半。最初の1時間が会社側からのプレゼンと質疑応答で残り30分が工場見学。

この会社では、航空機や鉄道車両の座席に使われる金属板の加工という仕事の一方で、そこで培った技術やノウハウを応用して自社ブランドのカバンなどを製造・販売している。今回のプレスツアーの関心も、その自社ブランド事業にあった。会社側からは自社ブランド誕生の経緯や全社のなかでの位置づけのような説明があり、記者側からは事業環境や業績面に関する質問が多かった。この質疑応答がかみ合わない。当事者同士はそれぞれにフラストレーションが溜まっているようにも見え、それが傍目には面白くもあった。

マスメディアというのは文字媒体であれ映像音声媒体であれ、限られた面積と時間のなかで伝えたいことを的確に表現しなければならない。そのためには情報を可能な限り単純化し、読者や視聴者に要求するリテラシーを軽減しなければならない。だからマスメディアが流す情報は規格化されている。記者は取材内容をその規格に合うように加工し、それに多少の脚色を付けていかにも独自性があるかのような記事内容に作り上げるのである。結果として、どの媒体も事実の断片に情緒的な文言を付しただけの似たり寄ったりの内容を配信することになる。媒体に物珍しさがあるうちは、それでも商売になるのだが、中身の無いものが市場経済のなかで売れ続けるはずはない。新聞雑誌の購読者が減少し、テレビの視聴率が傾向として低下するのは当然なのである。断っておくが、マスコミを批判しているわけではない。単に産業の内容を大雑把に要約しただけのことだ。

そうした情報の規格化に有効なのが数字である。情報の骨格である5W1Hは、その殆どの要素を数字あるいは数字的記号で表現することが可能だ。例えばある会社やその製品を紹介する記事には、いつからどのような目的で始めて、その事業規模がどのような推移を辿ったかということ、より具体的にはどれほどの売上と利益があるのかという情報が不可欠なのである。書き手に当該事業や製品に関するそこそこの知識があれば、手持ちの情報に取材で得た感触を数値化して記事規格を満足させるという芸当ができるだろうが、業界紙ならいざしらず、一般紙の記者にそのような匠の技など期待すべくも無い。

そんなことを知ってか知らずか、今日の取材に答える社長の口からは一切数字が語られない。社長の立場にしてみれば、数字なんかどうでもよいのだろう。はじめに自分の思いがあり、数字はそれにたまたまついてくるもの、という感覚なのかもしれない。そういう人を相手に取材をするなら、それなりに質問を変えればよさそうなものだが、自分のなかに決まりきった取材フォーマットしかないと、それができない。要するに記者として勉強不足なのである。俗に「30倍の法則」というものがある。例えばA4版1枚の記事を書こうと思えば、30枚書くことができるだけの情報量が必要だというのである。これは情報収集の側にも当てはまることで、1つの意味のある情報を得ようと思えば、その30倍の周辺情報を事前に仕入れておかないといけないのである。

記者側の質問を聞いていて彼等が収集したい情報はよくわかった。事業環境の概況、殊に昨今の景気後退の影響とその対応策、順調な事業とその内容、今後の展望と戦略、といったことだろう。

部品事業は常に顧客からの過酷なコスト削減と納期短縮の要求に晒されている。その顧客が、そのまた顧客から同じ要求を受けている。市場経済のなかで事業を維持拡大しようと思えば、際限なく低コスト短納期が要求されるのは当然のことだ。それが市場での価値の源泉なのだから。しかし、コスト削減や納期短縮を継続するというのは容易なことではない。事業情報の適時開示を義務付けられている上場企業ですら、殊に部品系事業者は個別事業の利益情報は開示しないものである。部品系事業者に対し、計数情報を過度に求めないというのは、多少なりとも市場経済と当該産業についての知識があれば常識的にわかることだろう。限られた取材時間は有効に使いたいものである。

展望とか戦略というのも、一応聞いておく程度のものである。そもそも戦略というのは組織内部に秘めておくものであり、それを明かしてしまったら戦略にはならないだろう。自分がどのような手を指すか事前申告をしながら将棋をする人はいないだろうし、手持ちの札を表にしてポーカーをする人もいないだろう。

誰にでもわかる、とうのは誰もわからないということだと思う。マスメディアは誰にでもわかる情報を売ることを商売にしている。そこに高度な技術やノウハウが求められるからこそ、彼等に存在価値がある。そもそも無理なことをしようとしているのだから、たいへんな仕事だと思う。

今日同席させていただいた取材の席で、そうした記者団からの質問に対し社長の受け答えに振れがないのを見ていて気持ちがよかった。そこに経験を重ねることで得た確信のようなものが感じられた所為かもしれない。

「不便なことは素敵なこと」

2009年02月07日 | Weblog
著者は米国の裕福な家庭で生まれ育った人だが、日本の文化に憧れ、日本人の画家と結婚して谷中で長屋暮らしをしているそうだ。日本にはこの本が書かれた時点(1999年)で既に20年ほど暮らしており、その眼で見た日本文化論である。と、書いてしまうとお決まりの薄っぺらな独断偏見書き散らかし、と先入観を持つ人も少なくないかもしれない。しかし、文章に情緒的な空回りがないわけではないが、著者がしっかりとした哲学を持って生きていることがよくわかる。そういう人の言葉だからこそ、些細な日常生活のなかの出来事に、生きる意味とか人生についての深い洞察が感じられる。もちろん、全部が全部納得できるわけではない。そこには個人の考え方の違いというより、やはり超え難い文化の壁を感じることもある。ただ、そうした違和感が本書の持つ価値を損じるものではない。時に耳の痛い指摘もあり、己の思考や行動を反省する材料も豊富に散りばめられている。思考の刺激に良い本だと思う。

善意依存硬直組織

2009年02月06日 | Weblog
かつて「システム化の誤謬」と呼べるような事態があちこちで見られた。企業の業務を合理化するためにITシステムを導入したら、そのシステムによって業務が却って煩雑になってしまった、というようなことである。

帰国して間もなく1ヶ月が過ぎようとしているのに、勤務先での事務手続きが未だに完了していない。経費の精算や文具の購入などをウエッブ上で行うことになっているのだが、人事上のデータは東京勤務なのに、こうした周辺業務のデータがロンドン勤務時代のまま変更されていないのである。周辺業務については、ひとつひとつ「本当に必要なのか」ということを吟味し、個々に変更の申請を出すのだそうだ。

社員用のウエッブ画面を開くと画面を埋め尽くすほどの多数のメニューが現れる。つまり、それだけ個々の作業や手続きが細分化されているということだ。全体に共通する人事情報などの大元のデータは各サブシステム間で共有されていて然るべきだと思うのだが、そうではないらしい。それぞれのサブシステムに個別の管理者がおり、ひとつひとつを変更するのにそれぞれに申請が要求される。これを社内では「グローバルシステム」と呼ぶ。

巨大システムといえば、身近なものは金融機関や政府関係のものがある。誰しも経験があるだろうが、今は地方自治体や国家機関の窓口の対応は懇切丁寧である。「お役所仕事」という言葉があるが、今は民間企業以上に個別の事情に応じて柔軟に対応してもらえるようになっている。まだ妙な手続きが無いわけではないが、官公庁の仕事の実体は「お役所仕事」という言葉の内実から、少なくとも利用者にとっては良い方向に乖離しつつあるのではなかろうか。

その昔、私が社会人になった頃は、社内のそれぞれの部門に生き字引のような人がいて、厄介な問題が生じても、そういう人の助言や奔走で丸く収まるというようなことが多かった。それがシステム化だの合理化だので、そうした暗黙知の塊のような人々が職場から淘汰されてしまい、決められたことを杓子定規に実行するだけのマニュアル人間が残される結果となった。しかも、雇用がこれほど不安定になれば、自分の評価に関係のないことには関与しないという姿勢が蔓延するのは当然だろう。なにか困ったことが生じた時、それは専らその事態周辺の人々の善意に期待するしかない、というのが現状であるように感じられる。

私のこの職場での仕事にしてもそうである。作業量の変動や休日の並びによっては、作業の流れに滞りが生じてしまうことがままある。そういう場合、本来は休みであるはずの人が自発的に出社したり自宅からシステムにアクセスしたりして仕事をこなし、滞りの発生を回避している。それはその人の善意に拠るものであって、そうしなければならない責任も義理もない。

少なくとも、自分の身の回りには未だに「システム化の誤謬」とも言えるような事態が存在している。このようなことは過去の勤務先では経験をしたことがない。これは単にシステムの問題ではなく、組織の仕組みや管理に根ざした問題であることは容易に想像がつくが、現象面としてはこうした個別の事象に端的に現れるのだろう。かつて企業再生の仕事に従事していた時に、破綻した企業をいくつか見てきたが、そうしたところでもマネジメントの不在というのは共通した特徴であった。企業とは利潤獲得を目的とした仕組みである。社員の間で共有されている目的もなければ、企業活動を円滑に動かす仕組みもないというのでは、いくら資本の注入を受けたところで、企業は存在できるはずがない。

無印に驚異する

2009年02月05日 | Weblog
2月3日付「家具・家電」にも書いたように、今週は新居で使うものを買いそろえている。ふと気付いたのだが、いつのまにか身の回りに無印良品の商品ばかりが目立つようになってしまった。今日着ている服など、ズボンもシャツもセーターも靴下も無印だ。ちなみに下着はユニクロだ。値段の割に品質が良いのと、デザインがシンプルで使い心地がよいので、ついつい無印を利用してしまう。これほどまでに自分の生活圏が単一資本に浸食されていることに驚異の念を抱いた。

新居で使うものもベッド、寝具類、テーブル、椅子、チェスト、アイロン、アイロン台、室内物干が既に無印で固められている。さすがに家電は無印商品の購入を検討したもののアイロン以外はメーカー品に落ちついた。冷蔵庫が三菱で、電子レンジはパナソニック、洗濯機が三洋で掃除機は東芝。

以前、仕事の関係で良品計画に関わっていたことがある。当時はこの会社が上場してから数年しか経ておらず、確かまだ東証2部だったと記憶している。店や商品のコンセプトは当時から変わっていないが、まだあの頃は安いなりの品質の商品も無かったわけではない。私と同世代かそれより上の世代では、無印に対してそうした安物イメージを未だに抱いている人も少なくないように感じる。しかし、単なる低価格だけでは今日の姿はなかったであろう。ある時期から無印の品質が急に良くなったような印象がある。事業展開の相が変化したということなのだろう。

仕事で良品計画に関わっていた当時に勤務していた職場は昨年末に閉鎖されてしまった。業界では老舗の部類に入る会社だったが、何年か前に身売りされて、厳しい合理化が図られていた。そうしたなかで東京事務所の存続が危ういのはわかっていたが、実際に閉鎖となると、退職して10年近くなるというのに、一抹の寂しさは感じる。一方で、まだ中小型企業に分類されていた良品計画が同じ10年の間に、親会社の実質的な破綻という荒波を受けながらも、世界の消費市場で確たる地位を築いている。毎日変わらないように見える自分の生活圏内でも、けっこう激しい変化があるものだと改めて驚いてしまった。

2009年02月04日 | Weblog
来週、所用で鳩ヶ谷へ行くので、経路の下見に出かけてきた。埼玉高速鉄道の南鳩ヶ谷駅から30分ほど歩いて目的地までの目印を確認しておく。そのまま第二の経路として、日暮里舎人ライナーの見沼代親水公園駅まで20分ほど歩く。

埼玉高速鉄道にしても日暮里舎人ライナーにしても、建設に至った経緯は知らないが、民間事業としては経営がかなり難しい路線だと思う。片や第三セクターであり、片や都営であるからこそ運行できているのだろう。どちらかと言えば、舎人ライナーのほうが乗降客が多い印象を受けた。埼玉と東京の差があるということかも知れない。

日暮里舎人ライナーの軌道は全線高架上を走っている。見沼代親水公園から隅田川を渡るあたりまでは、街並を見下ろすような恰好で走っているのだが、そこから日暮里寄りは立ち並ぶマンションの間を縫うように走る。部分的にしか見たことはないが映画「メトロポリス」を彷彿させる景色だ。

日暮里に着いて、まずは駅前の甘味処でしるこをいただく。先日、子供と一緒に竹むらで食べたものとは違って、素朴な感じがする。これはこれでよいと思う。ここから歩いて東博へ行くつもりだったのだが、途中あちこちで引っ掛かっているうちに出勤の時間になってしまった。

この谷中界隈には工芸品を扱っている店が点在している。それこそ商売として成り立っているのか疑問を感じないわけにはいかないほど、寂然とした佇まいの店ばかりである。尤も、店売りだけで商売しているわけではないのだろう。なかには単価の高い商品ばかり扱っているところもあり、客の多寡で商売の様子を語るわけにもいかない。朝倉彫塑館の前の通りを上野方面へ歩いていくと鼈甲を扱う店がある。ここのショーケースに並ぶ商品は、例えば眼鏡フレームがン十万円だったりする。そこからさらに上野寄りにある江戸指物の店には5万円近い箸入れがあった。どれもこれも私には手の届かないものばかりだが、普段はあまり物を欲しいとは思わないのに、このときばかりはひとつふたつ手元において使ってみたいと感じる。

そうした工芸品の展示販売もしながら喫茶もあるという店がいくつかあり、そのひとつに入って、他に客もいなかったので、コーヒーをいただきながら、スタッフの方にいろいろお話をうかがってみた。その店の喫茶に使われているテーブルや椅子は松岡信夫の作品だが、それも売り物なのだそうだ。今までいろいろな飲食店にお邪魔したが、テーブルや椅子に値札の貼ってあるのはここが初めてだ。テーブルも椅子も鉄の造形と天然木の天板や座面の組み合わせになっている。古木の持つ重量感と鍛造された鉄の重量感とがうまく調和していておもしろいと思う。

前回、谷中を訪れたときは珈琲専門店で店主とコーヒー談義に花を咲かせた。今回はギャラリーで、展示品を眺めながら楽しいおしゃべりに興じた。どちらも初対面なのに、なにかしら共通の取っ掛かりがあれば、そこから湧き出すように会話の世界が広がる。こういうのも縁というのだろうか。

家具・家電

2009年02月03日 | Weblog
新居での生活を始めるにあたり、家具や家電製品を調達しなければならない。家具は古道具屋で揃えようかとも思ったのだが、自分の今の動線上にそういう店が無いので億劫になって、勝手知ったる店で当面必要なものを揃えてしまった。問題は家電だ。これもひとつの店で洗濯機、冷蔵庫、電子レンジを買いそろえたのだが、量販店なので品数が豊富である。品数が豊富でも、特徴の乏しいものだと選択に困る。わずか3点の購入に1時間もかかってしまった。

近頃の家電は機能が過剰なものが多い。どういうわけか、機能が基本に絞られているものは小さいことが多い。基本に絞ってしかもそこそこの大きさの製品というのは無い。「通販生活」にはそういう類の商品が紹介されているが、通販というものはあまり好きではない。

冷蔵庫はすぐに決まった。一人暮らしなので大きなものはいらない。必然的に高さが1メール前後の商品に落ちつく。当然、その程度の高さなら、天板の上に何かを置いて使いたいと思う。ところが、多くの商品が丸みを帯びたデザインになっていて、天板が素直に真っ平らというものが殆ど無いのである。

電子レンジを、その平らな冷蔵庫の天板の上に置こうと思った。ロンドンでオーブンに馴染んでしまったので、庫内が広くてオーブン機能を使うときに250度まで温度を設定できるものが欲しかった。そして、冷蔵庫の上に体よく収まるもの、ということになるとやはり機種はある程度限定された。

洗濯機は迷いに迷った。どれも似たり寄ったりで決定的な差別化というもの難しい商品だとは思う。結局、業務用の洗濯機で定評のあるメーカーのものを選んでしまった。業務用で定評があるからといって、家庭用のものが良いとは限らないのだが。

不景気だと言われながらも、新年度を前にして学生や勤め人の移動が増える時期ということもあり、家具を買った店も家電を買った店も週末はたいへんな賑わいである。一昨日も両方の店を訪れて商品を見て歩いたのだが、このときは掃除機を買っただけだった。私は店員の話を聞きながら商品を選ぶのが好きなので、平日昼間の空いているときに、ゆっくりと買い物をすることになる。掃除機の説明をしてくれた人はメーカーの人のようで、商品知識が豊富だった。そのときは見るだけのつもりだったが、説明を聞いていて使ってみたくなり、予算の倍の価格だったが、買ってしまった。自分の身近なものなのに自分が知らないことはたくさんある。そういうことを知るのは愉快なことである。

「ブロデックの報告書」

2009年02月02日 | Weblog
自分と同世代という所為もあるのかもしれないが、フィリップ・クローデルは私が今最も注目している人物のひとりである。とはいえ、彼の作品を読むのは本作で3冊目でしかない。「リンさんの小さな子」も「灰色の魂」も本作も、同一人物が書いたとは思えないほど、それぞれに凝った造りになっている。小説には、そこで展開される物語を味わうという楽しみかたもあるが、建築物を眺めるように物語の構成の妙を楽しむという読み方もある。この作家の作品は勿論どちらの楽しみかたもできる。登場人物に極限状態を経験させることで、人間の心根を描き出そうとする姿勢は各作品に共通であるように思う。

但し、この作品では主人公に戦時中の強制収容所を経験させ、その前後の歴史に翻弄される故郷の山村の悲喜劇をさんざん描いておいて、最後に全てひっくり返してみせる。作品の最後の数行で読者を驚かせるというのは「灰色の魂」と同じなのだが、そのオチの激しさが「灰色」よりもさらに磨きがかかったという印象だ。さすがにそれでは読者が付いて来ることができないと心配したのか、後半の終わりちかくに伏線を張ってみせている。これには賛否両論ありそうな気もするが、私はこの伏線となる挿入寓話によって、物語の全体に深さが与えられていると好意的に解釈したい。

以前にこのブログのなかでも何度か触れているかもしれないが、尾形乾山の辞世の句を思い出した。

憂きことも 嬉しき折りも 過ぎぬれば ただあけくれの 夢ばかりなる

この歌と同じことを小説で表現すれば、この作品のようにもなるということだろう。毎日あたふたと暮らしているが、結局のところ、人生とはこういうものかと思う。

掃除機

2009年02月01日 | Weblog
今日、これから生活する住処の鍵を受領した。帰国して最初に購入した家電製品はアイロンだが、新居で最初に必要になるのは掃除機だ。ハウスクリーニングが済んでいるので、おおむねきれいにはなっているが、埃は毎日少しずつ溜まる。やはり家具類を搬入する前に掃除をしておかなければなるまい。

掃除機のメカニズムが単純だが、集塵機構の工夫や排気の浄化といったことに凝りだすと際限なくコストがかかる。また、このあたりの付加価値というのは、ダイソンの登場で注目度が増したようにも思う。

家電量販店で売り場の人に説明を受けながら商品を選んだ。その人の首にかかっている札から、量販店の店員ではなくメーカーから派遣されている人であることがわかる。当然、商品説明はその人の所属するメーカーのものに集中する。こちらとしては特定のメーカーに対する思い入れはないので、やはり同じような仕様の別メーカーの商品との対比のようなことも聞きたいのだが、メーカーの人だけあって商品知識が深い。ついつい説明に引き込まれて、そのメーカーの掃除機を購入してしまった。