万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ICJの調査捕鯨中止判決―日本国はソクラテスか?

2014年04月02日 15時39分22秒 | 国際政治
調査捕鯨に中止命令 国際司法裁 日本「判決従う」(産経新聞) - goo ニュース
 3月31日、オーストラリアの提訴を受けて、ICJは、南極海で実施してきた日本国の調査捕鯨が、科学的調査を目的としたものではない、とする判決を下しました。日本国は、法の支配を尊重し、判決に従うことを表明しています。

 調査捕鯨とは、生息するクジラの科学的調査を目的としておりますので、捕獲されたクジラが市中に流通している現状に鑑みれば、日本国の主張には相当の無理があることはあります。その一方で、日本国は、脱退する国がある中、調査捕鯨の許可を以って国際捕鯨委員会の方針にも協力し、厳しい規制を受け入れてきたのですから、どこか、梯子を外されてしまった感はあります。現状の取り決めにおいては、判決に従うしかないのですが、今後の論点として、商業捕鯨の国際的な禁止は正しいのか、という問題は残ります。もちろん、生物の多様性は維持されるべきですし、乱獲によるクジラの絶滅を避けるべきは言うまでもないことです。その一方で、クジラに対する特別の配慮が、宗教的な理由に基づくものであるならば(『聖書』における記述…)、極めて難しい問題を提起することになります。何故ならば、国際的なルールとして宗教的な配慮を認めますと、際限がなくなるからです。食のタブーには、神聖視と不浄視の両者があるそうですが、9億人もの信者を持つヒンドゥー教では、牛は、神聖視されている故に食べてはならないとされています。仮に、ヒンドゥー教の信者にも同様の配慮をするならば、牛もまた食用に供してはならない、ということになります。実のところ、捕鯨の禁止には、誰もが納得する根拠があるわけではないのです(商業捕鯨は、1982年に10年間のモラトリアムとして採択されて以来、このモラトリアムは有効とされている…)。

 古代の哲学者ソクラテスは、アテネの法秩序を守るため、”悪法もまた法なり”という言葉を残して毒杯を仰ぎましたが、ICJの判決では、日本国はソクラテスの役割を演じたのでしょうか。21世紀に生きているのですから、現代人には、法そのものが良き法であるのか、慎重に吟味する機会があってもよいのではないかと思うのです。

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コメント (4)
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