裁判所は「政治的」=米大統領
トランプ大統領とマスメディアとの対立は一向に改善される様子は見られず、今や、”大統領の行うことは全て間違っている”とする極端なスタンスも見受けられます。イスラム諸国出身者や難民の入国を制限する大統領令についても、アメリカの権力分立体制を危機に陥れる蛮行として報じられていますが、こうした決め付け型の批判こそ、人々の判断力を曇らせているように思えます。
この件で驚くことは、法の支配を蔑にし、権力分立を否定してきた中国までもが、マスメディアと声を揃えてアメリカ国制上の危機を訴えていることです。しかしながら、一連の経緯を観察しますと、大統領は、司法制度の枠組みから逸脱することなく、自らの大統領令の正当性を訴えているのですから、権力分立の破壊者とする批判は当たっていません。否、トランプ大統領自身が、裁判所は政治的であると発言しているように、この件については、司法の権力濫用の疑いの方が強いのです。
日本国でも、憲法学において統治行為論が議論されてきたように、アメリカでも、司法による政治介入の問題は、”政治的問題のドクトリン(the political question doctorine)”として提起されてきました。仮に、司法が政治的決定にまで踏み込むことが許されるならば、むしろ、三権分立は崩れ、裁判所に権力が集中する”司法独裁”に至るからです。憲法が与えた権限の範囲であり、高度に政治的な問題である場合には、裁判所には他の諸機関の決定を覆す権限はないとされおり、そうであるからこそ、各々の権力はチェック・アンド・バランスの均衡を保ち、国民に対して統治機能を提供することができるのです。この視点から見ますと、大統領が、国民の安全のための措置として採った大統領令を裁判所が取り消すことができるのか、甚だ疑問なところです。外部的要素の強い安全保障や治安上の危険性に関する見極めは、政治的な判断であるからです。
米国の三権分立を危機に陥れているのは、むしろ、米国の連邦裁判所であるかもしれません。最高裁まで持ち込まれるとしますと長期化も予測されますが、マスメディアは、自らの公平性を証明するためにも、司法の限界という視点をも国民に対して問題提起すべきなのではないでしょうか。
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トランプ大統領とマスメディアとの対立は一向に改善される様子は見られず、今や、”大統領の行うことは全て間違っている”とする極端なスタンスも見受けられます。イスラム諸国出身者や難民の入国を制限する大統領令についても、アメリカの権力分立体制を危機に陥れる蛮行として報じられていますが、こうした決め付け型の批判こそ、人々の判断力を曇らせているように思えます。
この件で驚くことは、法の支配を蔑にし、権力分立を否定してきた中国までもが、マスメディアと声を揃えてアメリカ国制上の危機を訴えていることです。しかしながら、一連の経緯を観察しますと、大統領は、司法制度の枠組みから逸脱することなく、自らの大統領令の正当性を訴えているのですから、権力分立の破壊者とする批判は当たっていません。否、トランプ大統領自身が、裁判所は政治的であると発言しているように、この件については、司法の権力濫用の疑いの方が強いのです。
日本国でも、憲法学において統治行為論が議論されてきたように、アメリカでも、司法による政治介入の問題は、”政治的問題のドクトリン(the political question doctorine)”として提起されてきました。仮に、司法が政治的決定にまで踏み込むことが許されるならば、むしろ、三権分立は崩れ、裁判所に権力が集中する”司法独裁”に至るからです。憲法が与えた権限の範囲であり、高度に政治的な問題である場合には、裁判所には他の諸機関の決定を覆す権限はないとされおり、そうであるからこそ、各々の権力はチェック・アンド・バランスの均衡を保ち、国民に対して統治機能を提供することができるのです。この視点から見ますと、大統領が、国民の安全のための措置として採った大統領令を裁判所が取り消すことができるのか、甚だ疑問なところです。外部的要素の強い安全保障や治安上の危険性に関する見極めは、政治的な判断であるからです。
米国の三権分立を危機に陥れているのは、むしろ、米国の連邦裁判所であるかもしれません。最高裁まで持ち込まれるとしますと長期化も予測されますが、マスメディアは、自らの公平性を証明するためにも、司法の限界という視点をも国民に対して問題提起すべきなのではないでしょうか。
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