日本国憲法の第20条には、「…いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」とあります。この条文を素直に読めば、新興宗教団体である創価学会を支持母体し、今や連立政権の一角を成す公明党の存在が違憲であることは疑うべくもありません。ところが、1964年に公明党が結党されて以来、不思議なことに一度たりとも違憲訴訟が起こされていないのです。
日本国憲法において政教分離が定められた理由は、第二次世界大戦後の占領期に制定された憲法であったこともあり、国家への神道界の影響力を排除するためであったともされております。つまり、分離の主たるターゲットは神道であったのですが、今日の日本国の政界を見ますと、日本国民は、むしろ新興宗教団体による政治権力の掌握という危機に直面しているように思えます。
神道は、仏教とともに古来、日本国の風土に溶け込み、人々の素朴な信仰心を集めてきた伝統宗教ですが、新興宗教団体は、特定の信仰(しばしばカルト)を共にする一部の人々によって結成された私的な集団に過ぎません。このため、新興宗教団体における政治権力の掌握は、権力の私物化という面においては、民主主義をも損ないかねないリスクがあります。国民のほんの一部でしかない宗教団体が国家権力を行使する、即ち、まさしく上述した憲法第20条が禁じる行為が行われることになるからです。公明党のケースでは、政党支持率が協力者も合わせて3~4%程度ですので、おそらく創価学会員の数はこの数を下回るのでしょうが、連立相手の自民党内でも、中国を共通項とする二階幹事長や菅官房長官など、公明党寄りの政治家が発言力を維持しており、日本国政府の政策決定過程における公明党の影響力は侮れないのです。
権力の私物化が禁じられるのは、権力の源が国民にあるからに他なりません(国民主権)。公共物を私物化することは、正当な権利なくして他者のものを奪う簒奪行為であり、れっきとした‘悪’なのです。とりわけ宗教団体ともなりますと、社会の内部に信者が多数おり、宗教ネットワークを構成しています。創価学会を見ますと、公明党の党組織に加え、全国各地に各種会館が設けられると共に、「創価系企業」とも称されている企業群をも擁しています。政治権力は、こうした信者や関連事業者への利益や便宜供与という形で分配されており、いわば、国から特別の優遇措置を受ける‘特権集団’を構成しているのです。
学会員3代目を称するユースビオの社長は、メディアに対して公明党との癒着は一切ないと釈明していますが、公明党の手元には当然に信者リストがあるはずですので、たとえ当人に直接に伝えなくとも、マスク配布利権を割り振った可能性も否定はできません。一事が万事であり、こうした信者に対する不当な利益供与が社会の隅々に渡って行われているものと推測されるのです。官界にも信者を送り込んでいるとしますと、官庁による許認可も例外ではないかもしれません。今般、厚労省から新型コロナウイルスの抗原検査キットの承認を得る山口県の事業者の社名も‘富士レビオ’なのですが、同社は無関係なのでしょうか(創価学会等の新興宗教団体の上部組織と目される国際組織にも頂が白い富士山への拘りがあるらしい…)。
中世にあって日宋貿易で得た巨万の富を背景に平清盛が権勢をふるった時代、‘平家にあらずんば人にあらず’とも称され、皇室とも結びついた平家一門が栄華を極めておりました。そしてこの時代は、平家が市中に放った‘かむろ’と呼ばれた童姿の若者(ユース)の一群が、一般の人々を監視して密告していた息苦しい時代でもあったのです。翻って現在の日本国を見ますと、信者以外の人々を権力やチャンスから排除して冷遇し、しかも自らの監視下に置こうとする公明党・創価学会の姿勢は、どことなく平家を髣髴させるのです。
今般のマスク配布の一件は、図らずもこうした宗教団体による政治権力の私物化問題を露呈しているように思えます。そしてそれは氷山の一角であり、この状態が放置されますと、日本国では自由、民主主義、法の支配といった諸価値が消え去り、国民が納めた税、あるいは、公共財としての歳入が、一部の特権的な人々にのみに再分配されるアンフェアで醜悪な全体主義国となるかもしれません(しかも、海外にも流出…)。こうした現状に鑑みますと、日本国民は、長らく避けてきた公明党の違憲問題に真摯に向き合う時期に至っているように思えるのです。平家滅亡を描いた『平家物語』は、哀愁を帯びた琵琶の音と共に‘奢れる者も久しからず’と語っております。