万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

二階幹事長の言う’国民’とは誰のこと?

2021年08月06日 12時42分23秒 | 日本政治

 先日、自民党の二階俊博幹事長の発言が、またも炎上する事態となりました。その発言とは、「菅首相は『続投してほしい』の声が国民の間にも強い」というものです。菅内閣の支持率は、東京オリンピック・パラリンピックが開催された後も低下傾向にあり、お世辞にも国民の間で続投を望む声があるとは言えない状況にあります。現実とのあまりの認識の‘ずれ’が炎上の原因なのですが、こうした発言をさらりと言ってのける二階幹事長の世界観は、おそらく、一般国民とは著しく違っているのかもしれません。

 

 ここで思い起こすのは、共産主義国家における’人民’という言葉です。そもそも共産主義の理論にあって人類が最終的に到達すべき体制とは、革命を経てプロレタリアート(労働者階級)が全権力を掌握する一種の独裁体制でした。もっとも、同思想が体制を支える国家イデオロギーの座に就くに当たって、プロレタリアートは、体よく’人民’という言葉に置き換えられます。この結果、’プロレタリアート独裁’は、プロレタリアート以外の人々全てをも独裁支配する’人民独裁’と凡そ同義となり、ここに共産主義国家は、人民民主主義の看板を高らかに掲げることとなったのです。’我々は、人民の人民による人民のための国家を樹立した’として。共産主義国家こそ’人民’の国家であるとする意識は、中華人民共和国、あるいは、朝鮮民主主義人民共和国といった共産主義国家の国名においても確認することができます。

 

 しかしながら、この’人民’という言葉は、今日、自由主義国にあって一般的な用いられている国民とは決して同義ではありませんし、’人民民主主義’も’民主主義’の本来の意味とは違っています。否、この言葉を正確に理解するためには、共産主義特有の’ダブル・シンキング’を前提とした解読作業を要します。’ダブル・シンキング’とは、かのオーウェルのディストピア小説『1984年』に登場するの用語なのですが、ソ連邦をモデルとする独裁国家「オセアニア」では、国家が使用する用語には表と裏があり、表の意味が’偽’であるとすれば、裏の意味こそが’真’です。例えば、’平和省’と名付けられた国家組織の真の姿は、戦争を遂行する機関です(他の2つの大国との間の、体制引き締めのための’八百長’なのですが…)。こうした’ダブル・シンキング’の事例は、小説の世界のみならず現実の共産主義国家においても散見されるのです。

 

 ’ダブル・シンキング’の思考回路から読み解きますと、’人民’の表の意味は自由主義国で使われる’国民’と変わりはないのですが、裏の真の意味は、共産党ということになります。共産主義国家にあっては人民を代表するのが共産党であり、それ故に共産党一党独裁こそが人民独裁に他ならないとする詭弁がまかり通っているのです。かくして、表看板としての’人民民主主義’の下で、’一党独裁’という民主主義とは真逆の国家体制が出現してしまうこととなったのです。

 

 もとより共産主義思想は矛盾や欺瞞に満ちているのですが、日本の政界にあって二階幹事長が親中派の代表格である点を考慮しますと、同氏が共産主義にシンパシーを感じていることは想像に難くありません。そして、この視点から同氏の発言を聴きますと、’国民’とは、決して日本国民一般ではなく、中国共産党、日本政界内の親中派、あるいは、中国の背後に潜む超国家権力体を意味するかもしれないのです。仮に、二階幹事長の背後勢力が菅政権の継続を望んでいるとしますと、日本国民は、警戒したに越したことはないと思うのです。


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