昨晩、混乱に次ぐ混乱の末に開催された東京オリンピックは、閉会式を迎えることとなりました。ところが、この閉会式にあって珍事が発生したというのです。それは、IOCのバッハ会長と東京大会組織委の橋本聖子会長が登壇した途端、示し合わせたかのよう選手たちが次々の退場してしまったというものです。この事件、一体、何を意味するのでしょうか。
同記事を報じるメディアの解釈によれば、開会式におけるバッハ会長、並びに、橋本会長のスピーチの長さがその原因なそうです。開会式のスピーチに費やされた時間は、バッハ会長が13分、橋本会長が7分でした。このため、実際にネット上では、両者に対して「話が長い」「校長先生のようだ」「選手らが疲れている」といった批判的な声があったそうです。しかしながら、二人分の時間を合わせても20分であり、学校の事業時間が45分である点を考慮しても、耐え切れない程に‘長い’と感じる時間であるとも思えません。同批判を受けて、閉会式ではバッハ会長8分、橋本会長5分と短めで切り上げたとされていますが、‘話が長い’ことが、退場の主要要因であったとは思えません。
そして、ここで思い起こしますのは、’ボイコット’というものです。学生時代、不満のある先生に対して生徒たちが結託し、’先生が教室に入ったらそこには誰もいなかった’、という’いたずら’をした経験のある方は少なくないのではないかと思います。遊び心半分、抗議の気持ち半分なのですが、とりわけ立場が’上’の人に対して何かを伝えたいときに、言葉ではなく行動で暗に示すこともあるのです。
本当のところは選手たちの真意は確認のしようもないのですが、仮に、選手たちが一斉に会場から退場を始めたとしますと、あるいは、それは、IOCの上部に対する不満表明であったのかもしれません。’五輪貴族’とも揶揄されているように、幹部たちの金満体質には目に余るものがあります。’ぽったくり男爵’とまで書かれたバッハ会長に至っては、一泊300万円ともされる豪華なホテルの一室で滞在していたとも報じられております(フェイスニュースかもしれませんが…)。幹部に対する’おもてなし’ぶりは、選手たちの宿泊用に用意された選手村の簡素な部屋とは雲泥の差です。近代オリンピックとは、表向きはアマチュア精神の発露とされていますので、手弁当で参加する選手と幹部との待遇差は埋めようもないのです(選手に対しては厳しい行動制限を課す一方で、バッハ会長は、閉会式の翌日には銀座を散歩していたという…)。
大会時における’格差’のみならず、近年、オリンピックには幹部汚職や開催費用の中抜きなど、ダークな噂が付きまとっております。好感度も低下傾向にあるのですが、選手たちが、IOCに対してボイコットという形で自らの不満を行動で示したとしてもおかしくはありません。今般の東京オリンピックの閉会しは、水面下において静かに進行していたIOCと選手たちとの間の亀裂が露わにしてしまったともいえましょう。
次回のオリンピックの開催都市はフランスの首都パリとなりますが、果たして、IOCが描いたシナリオ通りに開催されるのでしょうか。パリでは、歴史的な建物も競技会場とされ、女子馬術に至ってはベルサイユ宮殿で行われるそうです。最初は、フランスらしい’粋な計らい’と感心したのですが、女子馬術には、マイクロ・ソフトやビル・ゲイツ氏の長女やアップル社のスティーブ・ジョブ氏の末娘といったデジタル時代のセレブ達の参加も見込まれ(両者とも、練習用に広大な牧場を保有…)、FOC側の特別待遇であったのかもしれません。その一方で、ニューヨークのブロンクス区においてアフリカ系やヒスパニック系の若者のヒップホップ文化から始まったストリートダンスが、2024年から正式種目に採用されています。こちらの方の会場は、フランス革命にあってバスチーユ監獄襲撃に住民の多くが参加したパリ下町のフォーブール・サン=タントワーヌ地区なのでしょうか。
今日のオリンピックは、かのフランス革命に負けず劣らずの矛盾、欺瞞、偽善に満ちており、その存在意義が根底から問われているように思えます。そして、閉会式での出来事を見ますと、どこかで限界を迎えてしまうのではないかと思うのです。