イスラエル・ハマス戦争の激化、とりわけ、イスラエルによるパレスチナガザ地区に対する非人道的な殲滅作戦を目の当たりにして、世界各地では、イスラエルに対して‘自制’を求める声が高まっています。メディアの報道では、イスラエルに対して批判的な人々を‘親パレスチナ’の立場の人々として報じていますが、対立軸に沿って‘親パレスチナ’、あるいは、‘反イスラエル’として一括りとする表現は適切なのでしょうか。
各国や地域の世論をイスラエル対ハマスの対立を二分法で表現するのが、大手メディアの一般的な見立てです。その背景には、アメリカやヨーロッパ諸国にあっては、ユダヤ系の人々がそのマネー・パワーをもって多方面に亘って絶大な影響力を保持する一方で、戦後の移民政策によりイスラム教徒の数が急速に増加したという事情があります。このため、中東での対立が国内に飛び火し、国民を親イスラエルと親パレスチナに分断しかねない様相を呈しているかのような印象を受けます。ユダヤ系でもイスラム系でもない一般の人にも、旗幟を鮮明にするよう迫る緊迫した空気が流れているというのですから。
しかしながら、イスラエルかパレスチナか、ユダヤかアラブか、あるいは、ユダヤ教かイスラム教かの二者択一は、二項対立に人類を落とし込むための罠であるのかもしれません(悪魔が喜ぶ二重犠牲となる・・・)。今日の国際社会の対立構図は、二次元の国家間関係によってのみ説明されるのではなく、超国家的な権力体との間の対立、即ち、三次元的な視点を加えますと、余程、より現実に即して理解されるからです。超国家的な権力体とは、戦争によって巨大な利益を得るグローバルな勢力であり、世界経済フォーラム等の組織を擁する金融・経済財閥によって構成される世界権力を意味します。
ヨーロッパでは、十字軍にあって既に戦争はビジネス化しており、国益ではなく私益追求のチャンスとなってきました。地中海に面し、東方への航路の要衝に位置するヴェネチアの繁栄も、長期化した十字軍の遠征なくしてあり得ませんでした。モンゴルのバトゥのヨーロッパ遠征に際しても、モンゴル軍によって捉えられた捕虜を売買するユダヤ商人やイスラム商人が暗躍していたとされます。ましてや武器の製造者やこれらを売る商人達は、戦争状態にある全ての当事国に対して武器を販売できますので(もっとも、国家から敵国への武器輸出は禁止されることも・・・)、またとないビジネスチャンスとなったのです。
近代以降には戦争の規模が拡大し、国家、国民をあげての総力戦と化しますと、兵器の近代化と増産と相まってさらに戦争利権は膨れ上がります。経済全体が戦時体制による統制下に入り、あらゆる資源が優先的に戦争の遂行に振り向けられることになるのですから。平穏であった国民生活も一変し、大多数の国民が窮乏生活に耐え、政府からの徴兵や供出等の要請にも応ぜざるを得なくなるのです。その一方で、戦争利権者は肥え太ることとなります。
国家予算の大半を投じ、さらには、巨額の債務を負ってまで遂行される戦争とは、敵味方となる双方にあって破壊⇒製産⇒消費⇒破壊⇒製産というサイクルが続く巨大なビジネスであるのが現実です。戦後、アイゼンハワー大統領が退任演説で述べたように、軍産複合体とも称された軍需産業の利益は、国家の防衛や安全保障政策にまで影響を及ぼすに至るのです。ましてや軍資金や復興資金等を用立てる、あるいは、投資のチャンスとみるグローバルな金融勢力は、自らの身は安全な場所に置きつつ、特定の国家に対して忠誠心を持つわけではありませんので、戦争を起こす強い動機を持つと言えましょう。そして、イスラエルこそ、グローバル金融・財閥勢力の中枢に座るユダヤ人が建国した国家なのです。
巨大ビジネスである戦争の側面に注目しますと、今般のイスラエル・ハマス戦争も、同勢力による誘導である可能性は極めて高いように思えます。ハマスに至っては、アメリカとイスラエルによって密かに育てられたとされ、10月7日の奇襲攻撃も、イスラエルの‘報復攻撃’を正当化するための自作自演であるのかもしれません。そして、イスラエルが戦争当事国となり、ユダヤ人が超国家的な立ち位置である三次元から二次元に降りてしまった今日、一般の国民、すなわち人類こそ、敵味方への対立に追い込む二次元の視点から脱し、三次元の視点を持つべきなのではないでしょうか。民族であれ、宗教であれ、イデオロギーであれ、どちらかの側に味方する形での平和の訴えは偽りの平和に過ぎず、真の平和の実現には、私的利益のために戦争を常態化する世界支配の構図の終焉を要するのではないかと思うのです。